+++ 『SHIROH』紀行 4 +++
 
■天草(下島〜上島)■


 
さて問題の2日目。この日は湯布院まで移動しなければいけないこともあって、どういうスケジュールを組むか頭の痛いところでした。昨日は本渡から下島の南をほぼ半周することになったのですが、もし富岡城や四郎乗船の地へ行くとなると、これらは島の北側にあり、ほぼ島の周囲を一周するコースとなってしまうため、湯布院には何時につけるか見当もつかない旅になってしまいそうです。でも同行の母の、もう来られないかも知れないし、せっかくだから全部行けば?という言葉に押されて、結局全て回ることになりました。私はいいのですが、それにつきあわされる母は大変だろうと思ったのですが、別に構わないらしい。なんだ〜。

というわけで、最初の目的地は富岡城なのですが、その前に、富岡城の少し手前にある富岡城のキリシタン供養塔(千人塚)とキリシタン処刑場跡へ。
千人塚は富岡城へ行く途中にあり、案内板も出ているのですぐわかりました。住宅街の中にポツンとある慰霊碑でした。ここに原城で亡くなった人の骨も納められている筈(原城と富岡城、そして長崎の3箇所に分けられました)。写真は、撮り損ねました…。
分からなかったのがキリシタン処刑場跡。これはガイドブックには全く載っていない場所なのですが、前日に切支丹館で頂いた資料の中にあったので、せっかくだから行ってみることにした場所です。キリシタンへの拷問は残虐を極め、さまざまな拷問が考え出されたそうです。そのひとつが『SHIROH』にも出てくる”蓑踊り”。着せられた蓑に火をつけるという残酷なものでした。その他にも考えるだけもおぞましい拷問があったようです。
処刑場は何もそれらしい案内板もなかったので、仕方なく、お散歩をしていたご近所の方らしいお爺ちゃんに訊ねてみると、ここから歩いて数分のところで、高校の寮の裏手にあるとか。
車はその場に置いて歩いて行くと、寮と倉庫らしい建物の間に、忘れられたように、墓標のような石碑が一本、ひっそりと建っていました。刻まれている文字は日本語ではなく、全く読めません。何語なのだろう。その隣に木造の大きな白いT字方のもの。たぶんこれは十字架だったのだろうと思うのですが、先端部分が朽ちて折れてしまったようです。これらはみな雑草に覆われていて、訪ねる人は誰もなく、花を供える人もいないようです。あまりに哀れでした。場所柄、写真を撮るのは憚られました。

千人塚から車で5分ほど行ったところにあるのが富岡城。ここは四郎勢が天草に上陸して最初に攻めたお城です。四方を海に囲まれた天然の要塞ともいえる地形から、遂に落城させることは出来なかったそうです。海面からかなり高い場所にあるため、本丸の下あたりまでは車で行けるのですが、かなりの急坂で、そこから歩いて上るだけでも息が切れました。本丸は復元工事の真っ最中で、一週間後がオープンとか。本当にタイミングが悪すぎです。

【富岡城本丸】
復元工事中でした。国会図書館に詳しい見取り図が残っているそうで、それに基づいて工事が行われているようです

【富岡城本丸よりの眺め】
下島方面を望む。わずかな陸地で下島と繋がる地形は、モン・サン・ミシェルを思い起こさせます。
富岡城から海沿いに5kmほど国道沿いを走ると、道沿いに見えてくるのが天草四郎乗船の地の記念碑。
富岡城攻めの後、ここから四郎勢は原城へ向かったと云われています。このころ一揆軍は島原城、富岡城と二手に分かれて攻めていたのですが、どちらも落城させることが出来ずに膠着状態が続いたため、このまま一揆軍が分断されるのを恐れて、この地より、島原勢と合流すべく原城へ向かった、と云われています。

【天草四郎乗船之地】
苓北町の坂瀬川という場所にあります。

【天草四郎乗船之地】
この写真ではあまり大きさがわからないけれど、高さが5m近くもある、かなり大きな記念碑です。
下島から上島へ入って、次に向かったのが天草・島原の乱初戦の地。一揆軍がはじめて刃を交えた場所です。一揆軍はまず島原城を攻めましたが、天草での危急を聞いた四郎勢は天草にとって返し、上津浦から上陸してこの場に集結したと云われています。ここが初戦の地と云われている所以です。その後、一揆軍は優勢に進撃し、唐津勢は敗走して、ついに富岡城攻撃に至ったとか。
この場所には石碑がひとつと、石碑の横に、初戦の地であることを説明した案内板が立っていました。すぐ裏手が神社になっているのは偶然でしょうか?それとも昔からあったのかな。
上島の海沿いに走るこの道路には”ロザリオライン”という名がつけられています。たぶん天草四郎に縁のある場所が数多くあるからなのでしょうね。

【天草・島原の乱初戦の地】
有明町の大島子にあります。
石碑には”天草四郎勢集結の地”とあります。裏手は神社になっています。

【天草・島原の乱初戦の地】
初戦の地を示す案内板
そして初戦の地からほどなく行ったところに、天草四郎勢上陸の地、があります。案内板も碑も何もない上、近隣の人もよく知らなくて、見つけるのに苦労しました。上津浦にあった郵便局で訊ねたのですが、色々地図などを見た結果、花剣環境という会社のあるあたりがそうでないかということになり、その場所に行ってみることにしました。目的の会社の下は、上陸には丁度良いと思われるような塩梅の磯になっており、その会社で訊ねてみると、事務員の方も知らなくて、どこかに電話をかけて確認してくれました。そして、この場所がそうである、ということが確認できました。道路沿いに磯へおりる細い道が延びていたので、車は会社の前のスペースに置かせていただいて、早速、磯におりてみました。天草は切り立った岩場がそのまま海に落ち込んでいるところがほとんどで、砂浜どころか磯さえあまり見かけません。そのせいか、海の色はとても澄んだ美しいブルーでした。

【天草四郎勢上陸の地】
有明町の上津浦にあります。
島原からこの地へ上陸したと云われているところ。

【四郎ヶ浜】
上陸の地の少し先にあるビーチ。特に四郎や天草の乱とは関係なさそうですが、”四郎”という名前がついているので一応、撮ってみました。こんな場所は天草にはほとんどありません。真っ白な砂浜なのですが、これって天然?もしかすると人工砂浜なのかも知れません。
上島を後にして、天草での最後の目的地、大矢野島へ向かいました。ここには四郎の生家と云われている場所があります。

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