バベル

BABEL
監督 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
出演 ブラッド・ピット  ケイト・ブランシェット  菊地凛子  役所広司  アドリアナ・バラ−ザ  ガエル・ガルシア・ベルナル  エル・ファニング
脚本 ギジェルモ・アリアガ
撮影 ロドリゴ・プリエト
音楽 グスタボ・サンタオラヤ
編集 ダグラス・クライズ  スティーヴン・ミリオン
2006年 アメリカ作品 143分
カンヌ映画祭…監督賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー…新人賞(菊地凛子)
ゴッサム賞…ベスト・アンサンブル・キャスト賞
パームスプリングス国際映画祭…監督・アンサンブル演技賞
サンディエゴ映画批評家協会賞…作曲・ベストアンサンブル賞
シカゴ映画批評家協会賞…助演女優賞(菊地凛子)
サテライト賞…作曲賞
ゴールデングローブ賞…作品賞(ドラマ部門)
英国アカデミー賞…音楽賞
アカデミー賞…音楽賞  他
評価☆☆☆☆


アカデミー賞をにぎわせた注目の作品(とはいえ、受賞したのは音楽賞だけだが)、公開初日に行ってきましたよ。
特典はリストバンド。「BABEL」という文字の他に「LISTEN(聞きなさい)」の字も入っている。うー、こんなの要らないのに…。誰が使うんだ、もったいない、という気持ち。

イニャリトゥ監督は、ものごとを時間の順に並べずに見せ、しかも、いくつもの違った国での場面を次々に切り替えて描く。こういうのが好きらしい(脚本のギジェルモ・アリアガのせい?)が、本作は、それでも過去の作品「21グラム」などに比べたら分かりやすかったと思う。
私がこの方式で感じるのは「混沌(こんとん)」とか「運命」
つまり、ものごとは人間が自分でしようと思ってやっていることばかりではない。思いがけない出来事が襲ってくることがあり、それは世界の中で、どこであっても、否応なく進んでいく。時間のとおり順番に並べようが、でたらめに並べようが、起こることは混沌の中にもかかわらず起きているのだ。
人間はそれに、どう対処しうるのか。
そうした世界を表現するには、イニャリトゥ監督のとる編集方法は、ふさわしく感じる。

「バベルの塔」を広辞苑で見ると「ノアの大洪水の後、人々が天に達するような高塔を築き始めたが、神は人間の僭越をにくみ、人々の言葉を混乱させ、その工事を中止させたという。(創世記11章)」とある。
「僭越(せんえつ)」とは、でしゃばった態度のこと。「言葉を混乱させ」たというのは、さまざまな言語に人々を分けて意思の疎通を難しくしたこと。
そこから映画は、人間の「コミュニケーションの不足」、そして「孤立」「孤独」を見せていく。
コミュニケーションのひとつの手段である「声」をなくした菊地凛子さんの役は、象徴的な存在といえるだろう。

モロッコの2か所、日本、メキシコ(アメリカ)で起こる4つのものごとは、そのどこでも「コミュニケーションの不足」「そんなつもりではなかったのに」「なぜ、こんなことが」という事態が起こり、理解しあえないことも含めた、人間の悲しさ、愚かさを浮き彫りにする。
加えて、国家間の問題の難しさや、アメリカに出稼ぎに行かなくては生きていけないメキシコの貧しい人たちのことなど、社会的な面までもふれている。
世界のこと、人間のことを、まじめに考えている良作だと思う。

菊地さんがエッチな行為に出過ぎる、という批判がある。私は彼女については、コミュニケーションの断絶の象徴と見るので、彼女の行動がいくら極端だとしても、それは彼女の心の悲鳴を表していると思いたい。彼女の演技によって日本人がどう見られるか、とか、聾唖(ろうあ)者がどう見られるか、という問題ではあるまい。
他者の注目をひくために、愛されたいために、裸になったりエッチな行動に出るしか手段をもたない彼女は悲しすぎる。
彼女がクスリをやるシーンは、裸になる正当な理由づけのひとつではないか、とも考えた。クスリで気分が大胆になっていたから、という。

彼女の露出行動の他にも、少年の覗き見、唐突な自慰シーン、怪我をした妻がおしっこを…というシーンなど、意味のない「下ネタ」「エッチ」描写があることに嫌悪感を抱く人も多いようだ。だが、そこに私は「人間くささ」を感じる。きれいなだけじゃないでしょう、人間なんて。絶対に、岩陰で突然オナニーしないと断言できる? もよおさないと言える? 怪我で動けなくても尿意はある。
それが生きている人間。悪いことをしているのではない。極端なことを言えば、そこまで含めて、いとしいと思わなくては、人間を愛することではないのではないか、と作り手は言いたかったのではないか。

当初、映画には日本語の部分に字幕がつかないということで、せっかく菊地さんが聾唖者の役でがんばっているのに、聾唖の人が映画を観ることを考えていない、というクレームがついた。
私が観たときは、英語日本語にかかわらず、すべての台詞に字幕がついていた。よかったと思う。
実際、映画のあと、聾唖の人たちが数人、手話で話し合っている光景を見た。

また、一部の映画館では、クラブのシーンで光の明滅で気分が悪くなる人が出ているが、これは私も少しやりすぎだと感じた。
どんなチカチカ映像でも、たいていは平気な私でさえ、目をそらしたほどだから。

2時間23分は長くなかった。え、もう(ここで)終わり? と思ったほど。
(ラストで役所さんが目の前の光景に驚かなかったのは、なぜか。ここは考えどころだ。)

さまざまな立場に置かれた(または、追い込まれて、ジタバタともがく)「人間(の悲しさ)」というものを見せつける力作。

おまけ。発見! メキシコ(アメリカ)編の女の子は、ダコタ・ファニングの妹エル・ファニング!




〔2007年4月28日(土) 日比谷スカラ座〕


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