上島から天草松島と呼ばれる島々を渡り、パールラインを通って天草での最後の訪問の地、大矢野島へ。
天草四郎時貞こと益田四郎の生誕の地と考えられている場所は、長崎、宇土、天草の3箇所あるそうですが、出土品や細川藩の一級資料などにより、ほぼ、天草の大矢野生まれであることが特定されたそうです。
その大矢野の中心地にある天草四郎公園には天草四郎像、天草四郎の墓、そして天草四郎メモリアルホールがあります。
四郎公園にある四郎像は、ちょっとふっくらした面立ちのブロンズ像で、像の置かれている小高い丘の周辺にはキリシタンのお墓も幾つか並んでいました。
四郎像の後ろにあるのが、四郎の墓。もっともこれも慰霊碑で本当のお墓ではありません。
天草四郎メモリアルホール内では、原城の攻防のジオラマや天草の乱を再現した15分ほどの3D映画を見ることができますが、四郎やキリシタンに関する展示物自体は、そう多くはありません。資料館というより、歴史テーマ館といった趣で3階は瞑想ルームと呼ばれる摩訶不思議なスペースとなっています。原城に散った多くの命が天に上る様子を光と音、そして香りで表現したスペースなのだそうです。何とも不思議な空間でした。 |

【天草四郎公園内の四郎像】
上天草市の天草四郎公園内にある天草四郎像。
”人々にあいさつする四郎像”昭和41年9月建立。 |

【天草四郎公園内の四郎の墓】
実際のお墓ではありませんが、天草四郎の墓と彫られています。 |
天草四郎メモリアルホールから約500mほどの場所にあると云われる益田甚兵衛住居跡への行き方を、メモリアルホールの方にもう一度確認。メモリアルホール沿いに続く道を道なりに左手方向に進んだところに、標示があるとのことでした。見逃さないようにゆっくり走った方がいいですよ、とのご忠告に従い、そろそろと車を走らせると、道沿いの左手に「室町後期から江戸前期大農家の跡」という標示が見えてきました。この先は車で入れないと云われたので、道沿いに車を止めて、砂利道を歩いて行きました。この先約100mのあたりが住居跡とのこと。
昭和59年に発見された当初は大農家の跡、ということしかわからなかったそうですが、発見された数々の遺物や細川家に残る資料などにより、この場所が益田甚兵衛住居跡にほぼ間違いないと特定されたのだそうです。住所は大矢野町中越の浦(こいのうら)1383番地。この越の浦地区では今も約20世帯中の半数が益田姓だそうです。 |

【益田家住居跡への入口】
住居跡への入り口を示す標示
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【益田家住居跡へ続く道】
この先に住居跡があると思うと、ちょっとワクワク
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位置的にこのあたりと思われる場所は、どこも生い茂った草に覆われていて、その間に畑が点在しています。何せ、目印が何もないのではっきりと、ここ、とはわかりません。でもこの視界のどこかに必ずあるはず。
このあたりが甚兵衛住居跡、即ち、天草四郎生誕の地と考えられている場所です。
益田家は大矢野城主に仕え、越の浦一帯の交易も司っていたことから、かなり裕福な名のある家柄の子だったようです。甚兵衛が小西行長に仕えた後も、祖父は大矢野城主に仕えていたと云われ、天草の乱後も生き延びたとのことです。甚兵衛は浪人の身になっても、生活が困窮する、ということはなかったのでしょうね。 |

【益田甚兵衛住居跡付近】
このあたり? |

【益田甚兵衛住居跡付近】
それともこのあたりかな? |
私の島原〜天草の旅はこれで終わりです。
四郎終焉の地(思えば葬られた地である長崎からの旅でした)から生誕の地までを逆さまに廻る旅。最初は単なる観光だった筈が、次第に調査の旅の様相を呈してきてしまいました。どうしてこんなことになったのか、なぜ私はこんな山の中に入って草むらをウロウロしているのかしら、という思考が頭の隅をよぎりながらも、結局は完走してしまいましたね。時間の都合で島原城へ行けなかったのが心残りです。いつか機会があればぜひ行ってみたいなあ。島原は武家屋敷の残る美しい城下町だそうですよ。
この旅では、本当にたくさんの方にお世話になりました。感謝の気持ちでいっぱいです。
もし、この旅行記に記した場所を訪問されるなど、私に何かお手伝いできることがありましたら、どうぞ遠慮なくご質問下さい。わかる範囲でお答えできればと思います。本当にこんなことぐらいしか私に出来ることはありません。
陣中旗や天草四郎については、他の項目を設けてもう少し詳しくお話することにしますね。 |
★おわり★ |