超音速旅客機(SST)開発史

〜アメリカのSST開発と挫折〜

 

<バックグラウンド>

 第二次世界大戦後、数多くのジェット旅客機が開発され、世界は新しい時代を目撃したが、音速を超える超音速旅客機は夢でしかなかった。しかし、最高速度マッハ2の超音速爆撃機コンベアB−58の登場で夢は現実へと動き出した。コンベアB−58では胴体下に核爆弾を搭載するポッドを取り付けていたが、同じように乗客を乗せるポッドを取り付けるアイデアが各国で研究された。英国では1956年に超音速旅客機(SST)委員会が発足し、1959年には2種類のSST計画案が発表された。1つは、最高速度マッハ1.2で、M字型の翼を持つ非常に革新的な機体で、もう1つはより航続距離が長く、最高速度マッハ1.8、スレンダーなデルタ翼の機体であった。

 このような超音速旅客機を開発する上で、従来のアルミニウム合金製エアフレームでは実用の目処がたたなかった。そのため、超音速機には新世代の素材が必要で、米国のXB−70バルキリー超音速爆撃機はステンレスを、同じく米国のA−12超音速迎撃機はチタンを使用することで問題を解決した。

 1962年、英仏共同のコンコルド・プロジェクトが動き出した。ついに超音速旅客機の開発が開始されたのである。これを受けて、各国でも超音速旅客機開発プロジェクトが動き出し、ソビエト連邦ではツポレフ設計局がTu−144超音速旅客機の設計作業に取りかかった。一方の超大国アメリカでもこれを見過ごすわけには行かず、1962年、NASAによるSCAT(スーパーソニックエアトランスポート=超音速輸送機)計画が始動した。ここに、国家の威信をかけた開発競争がスタートしたのである。

 1963年6月5日、ジョン・F・ケネディ米大統領のSST計画推進の演説により、アメリカの超音速旅客機開発の動きはさらに加速された。このような中で、米連邦航空局(FAA)はボーイング、ロッキード、ノースアメリカンの3つの機体メーカーとカーチス・ライト、ジェネラルエレクトリック(GE)、プラットアンドホイットニー(P&W)の3つのエンジンメーカーに対して提案要請を発行し、各社の機体案が1964年1月15日にFAAに提出された。アメリカはソ連やヨーロッパと違って、より野心的なマッハ3級の超音速旅客機の開発を狙うことになった。

 

<アメリカのSST開発〜ボーイング VS ロッキード〜>

 アメリカではボーイング社のB−2707とロッキード社のL−2000が政府の次期SST選定を目指して激しいデッドヒートを繰り広げた(詳しくはB−2707L−2000のページを参照して下さい)。その結果、B−2707がアメリカの次期SSTに選ばれた。

 

<夢の終焉>

 しかし、超音速旅客機によるオゾン層の破壊や、音の壁を突破する際に発生する衝撃波(シニックブーム)の地上への影響、空港周辺の耐え難い騒音など、主に環境問題の点でアメリカ国内の超音速旅客機に対する風当たりは厳しさを増していた。このようの状況下で、ニクソン大統領は12名の専門家から成る委員会を組織し、意見を求めた。ニクソン大統領自身は超音速旅客機(SST)開発に興味を示していたが、委員会は環境問題というよりむしろ経済的な問題の点からSST開発の必要性を否定した。即ち、量産機を製造するには3億ドルもの費用がかかり、利益を出すには少なくとも300機以上も販売しなくてはならないというのである。委員会はこのような需要はSSTには存在しないという結論に達した。

 1971年5月20日、ついにボーイング2707の開発が中止され、一連のアメリカのSST計画は終わった。この時点までに7億ドルもの資金がSST計画に注ぎ込まれていた。

 

AD2003/05/23 Update

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