「奈良の大仏」のレポート
  自分のホームページで小説を発表している雛菊さんのレポートです。
  ブラインドタッチの持ち主です。本当に小学生です。
聖武天皇は、莫大な予算をかけて、なぜ奈良の大仏を作ったか。

                                         6年 雛 菊

1.大仏を何の為に造ったか
  『明るい社会・日本の歴史T』、岩崎書店)には、「天皇と貴族の政治が崩れてしまいそう」になり、「聖武天皇は、寺をたてて人々に仏をおがませ、仏教の力で政治のたて直しをはかろうとし、国ごとに国分寺をたてる命令を出しました。」と書いてある。『小学6年 社会』(学研・41頁)にも、国分寺を聖武天皇が仏教の力で国を守ろうとして建てさせた寺と書いてある。2冊とも同じような内容である。他の本にも、きっと同じ事が書いてあるだろう。  これらはどれも正しいと思う。当時の状況を見れば、疫病、飢饉、藤原広嗣の乱などもあり、聖武天皇が仏教を信仰していたということからしても、乱れた世の中を治そうとして、仏教の鎮護国家の考え方を利用したのは当然のことだと考える。

2.大仏をどうやって造ったか
 巨大な大仏を奈良時代にどうやって造ったのだろうか。『ジュニア日本の歴史2 貴族のさかえ』(74頁、小学館)によると、「大仏のつくり方は、国中公麻呂の努力で解決した」らしい。しかし造り方はわかっても、仏にぬる金の不足の問題がある。それまで日本には金は、産出しないとかんがえられていた。」(『前掲書』、74頁)からである。ところが、偶然にも陸奥に砂金が発見され、その問題は解決されたということである(『前
掲書』、74頁)。他にも、大仏造りの為の寄付を集めた行基という人物の行動の影響も大きいらしい。大仏の造り方は、『少年少女おはなし日本歴史』を参考にした。
【大仏の造り方】
木の枠を組んでしばり砂をかぶせ粘土で塗り固め、実際に造る仏像と同じ物を造る。
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固まったら粘土の上の像の上に雲母をまきその上に粘土をかぶせて50cmほどの外型を作り、
これを数日間乾か してはがし火で焼いて固める。
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粘土の仏像は銅の厚さだけけずって中型と外型の間に支えを入れてくっつかないようにしてそこへ溶けた銅を流し込む。
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16mの巨像なのでいっぺんには流し込まないで3年かかって8度に分けて順々に鋳込んでいった。そして外型をと りはずして仕上げの細工をして出来あがった。
  この説明を見ても、大仏造りが大変だということがわかる。さらに、『小学6年社会』(学研)によると、銅、金、木材などを大量に集め約9年の年月とのべ260万人の人手をかけて完成されたと考えられている(41頁)。

3.大仏を造って世の中はよくなったか

 資料(ア−2)によると、農民に分配されている田畑の広さは法律で決められていてこの田からとれる米では農民が一年間に食べられるだけの量は無く、しかも米が足りない時は郷長などに米を借りるのだが、返す時は借りた分の1倍半ほど返す仕組みになっていたので農民の暮らしは苦しくなるばかりだったと書いてある。
  山上億良が書いた『貧窮問答歌』をみても、「人なみに私も生まれたのに、綿もない布の肩衣の、それも海草のようにぼろぼろなのを肩にかけ、つぶれて柱も曲がったあばらやの中で、地面にじかにわらを敷き、父母は枕のほうに妻や子は足のほうに私を囲んで、悲しみなげいている。」とあり、人々の暮らしの悲惨さがわかる。
 さらにインターネットで調べてみると、奈良の都に大仏が造られたころ、郷長は広い田を持ち、いくむねもの高床の倉庫に米を蓄え働き手もたくさんいたのに対して、一般の農民はごく粗末な竪穴のような草葺の狭くて暗い家に住んでいたらしい。しかも貧乏人の一般の農民が防人に行かされたとあり、その負担の大きさがわかる。
 防人とは?
  朝鮮に対して北九州を守る為兵士として徴用される事。防人の制度は『令議解』によると衛士として京に向かうものの任期は1年。防人として筑紫に向かうものの任期は3年。ただし往復に要する日数はこの計算にいれない。防人が任地に向  かう場合自己の負担で途中の食料を用意していく、というように農民への負担は大きかった。 
  いろいろと調べて見ても、農民にとって有利な史料や資料は何一つでてこない。大仏は聖武天皇が仏教の力(鎮護国家)で国をたて直そうとし、造ったものだったが結局、農民を苦しめる事になってしまったのだ。これでは、世の中はよくなったとは言えない。

☆♪まとめ☆♪
 聖武天皇は、仏教の力で世の中の不安を鎮めようとして、国分寺・東大寺・大仏を造った。『ジュニア日本の歴史2 貴族のさかえ』によると、この頃の仏教にたいして国家がのぞんだのは、人びとの心をすくうという、仏教本来の教えよりも、仏教のもっている呪術(まじない)的な力が国家をまもり、さかえさせることだった。これを、鎮護国家の考え方という。この目的のあうばあいだけに仏教を保護したとある(73頁)。
 巨大な大仏を造りたくさんの人手と年月と国の富を使ったが出来あがった時に盛大なる開眼の式の大供養ははなやかに行われたが、喜んだのは聖武天皇他、大臣、役人、貴族、大きな寺の僧達ばかりで自分の意思に関係無く働かされ、国にとりたてられていた一般の町民や農民達はもちろん大仏殿の中に入る事は許されず、苦しい生活にあえいでいたと思われる。ということからすると、農民達には苦しみを増やすだけの存在だっただろう。
※『前掲書という書き方は、引用者が書き直しました。


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