五線譜のラブレター DE-LOVELY

DE-LOVELY
監督 アーウィン・ウィンクラー
出演 ケビン・クライン  アシュレイ・ジャッド  ジョナサン・プライス  ケビン・マクナリー  サンドラ・ネルソン  アラン・コーデュナー  ピーター・ポリカーポウ  キース・アレン  ロビー・ウィリアムス  レマー・オビカ  エルビス・コステロ  アラニス・モリセット  ジョン・バロウマン  キャロライン・オコナー  シェリル・クロウ  ミック・ハックネル  ダイアナ・クラール  ヴィヴィアン・グリーン  ララ・ファビアン  マリオ・フラングーリス  ナタリー・コール
歌曲 コール・ポーター
音楽 スティーブン・エンゲルマン
脚本 ジェイ・コックス
撮影 トニー・ピアース=ロバーツ
編集 ジュリー・モンロー
2004年 アメリカ作品 125分
評価☆☆☆☆


コール・ポーターといえば、私にとっては、たくさんの曲がミュージカル映画で使われている、人気のある作曲家、という知識くらいしかなかった。
私がいちばんお馴染みなのは、やはり、マリリンが映画「恋をしましょう」で歌っている“My Heart Belongs to Daddy”(私の心はパパのもの)。この曲のオリジナルは、1938年の“Leave it to Me!”という舞台ミュージカルの中の曲で、メリー・マーティンという人が歌っている。

コール・ポーターの曲が流れる映画で思い出すものといえば、まず、グレース・ケリーやルイ・アームストロングが出演した「上流社会」。ビング・クロスビーとグレースが歌った名曲“True Love”(トゥルー・ラブ)が、「五線譜のラブレター」では、ピアノの伴奏にのせて、アシュレイ・ジャッドと子どものデュエットによって、さらりと歌われた。「五線譜のラブレター」の中では、ポーター「らしくない曲だ」と言われていたが、しっとりした素直なラブソングが、ポーターらしくない曲ということなのか?と初めて気づかされた。
他に、ジーン・ケリー、ミッツィ・ゲイナーの「魅惑の巴里」、フレッド・アステア、シド・チャリシーの「絹の靴下」、シャーリー・マクレーン、フランク・シナトラの「カン・カン」などの映画もコール・ポーターの曲だったなあ、と思い出す。

この「五線譜のラブレター」で、すごく耳に馴染んだ曲が流れてきて、あっと思った。テレビの「日曜洋画劇場」のエンディングに流れていた曲だ。(ちなみに、平原綾香さんの「Jupiter」〔ホルストの「惑星」をアレンジした曲〕も、日曜洋画劇場のエンディングだったと思う。)
あとで調べたら、“So in Love”(ソー・イン・ラブ)という曲で、映画にもなったブロードウェイミュージカル「キス・ミー・ケイト」で歌われていたと知った。
「キス・ミー・ケイト」は有名で、名前は知ってはいたが、いままで観たことはなかった。さっそくビデオをレンタルしてきて観た。映画では冒頭早くも、まるでオペラのような歌い方で登場していた。もう1回くらい、映画の中で歌わないかなあと、少し惜しい気もした。

さて、「五線譜のラブレター」の内容についてだが、監督はアーウィン・ウィンクラー。この人は、ずっと製作者だったが、1990年初めころから監督業も開始している。彼の監督作では「ザ・インターネット」を観たことがある。演出的には正統派といえるのか、しかしメリハリというのか、あまり特徴がない映画作りをするような印象もある。
今回も、とてつもなく波瀾万丈な人生、とは言えるほどではない作曲家の伝記ということで、ストーリー的には少々平凡にならざるをえないところだが、まず音楽がいいのと、主演2人の芸達者な魅力(とくにケビン・クラインは、彼自身ブロードウェイミュージカルにも出演してトニー賞まで得たほどの役者。うまいとはいえないけれど、自分で何曲も歌を歌っている)、そして、コール・ポーターの半生を見せるための脚本の工夫も面白い。

この映画の目玉として、有名な歌手が大勢ゲスト出演して、コール・ポーターの歌を歌っていることが挙げられるのだが、私は出てくる歌手たちに詳しくないので、出てきても、あまりよく分からなかった。
それも、かえって、そこだけに注目してしまわずに、映画全体を楽しむことができたともいえるのではないか、とも思うが。豪華ゲストの顔ぶれについては、上記のキャストを参照ください。
私は、あとで映画の公式サイトなどを見て、ああ、この人がシェリル・クロウか、などと思っていたのである(爆)。個人的には、“Love for Sale”(恋の売り物)を歌ったヴィヴィアン・グリーンは、いいなあ、うまいなあ、と思った。

最も印象的だったシーンは、“Night And Day”(夜も昼も)の歌の音域が広すぎて歌えない、とぼやく歌手に対してコール・ポーターが指導する練習風景から、カメラが回転すると、満員の客席となり、一気に本番のステージに変わるところ。その鮮やかな見せ方に魅了させられてしまった。

曲をきっちり聴かせるミュージカルというよりも、作曲家の伝記映画に音楽がついてくる、といった趣きだが、1920年代のパリから、ニューヨーク、ハリウッドへと舞台が移り、ジョルジオ・アルマーニが特別に提供した衣装も豪華絢爛に魅せてくれる。特にパリ社交界の華だったリンダを演じたアシュレイ・ジャッドの、エレガントなドレスの着こなしは見どころ。

コール・ポーターは、裕福な家庭で育ち、6歳でピアノを、10歳で作曲を始め、イエール大学を出る、という、真正の(?)エリート。40年間に870もの曲を作った。
妻になるリンダと出会ったときは、パリに遊学中だった。うらやましい身分である。
彼は、女も男も愛せるというバイセクシャルだったが、リンダはそれを承知で結婚する。
「私はあなたを愛するけれど、あなたはそれと同じくらいには私を愛さなくてもいいのよ」

彼女の姿勢は、この言葉に集約される。
夫が他の人間に愛を向けることに、心が少しも波立たないことはない。
だが、離婚の経験で男に懲りた面もあるのかもしれない。男の才能に惚れて、支えてあげたいという思いが、愛情という形で強く出たのか。一風変わった夫婦関係ではある。
しかしながら、コール・ポーターの晩年のシーンから始まって、最後のシーンまでは、見事に、この夫婦の絆を描いていた。結局、彼が帰るところはリンダだった。
子どもも得ることができなかったし、すべてがうまくいったわけではないけれど、リンダは最後には、ほぼ幸せで満足だったに違いない。彼が自分のそばにいる。幸せでなければ、あんな表情は、しない。
多くの見返りを求めない愛情の強さ、美しさを、アシュレイ・ジャッドが好演した。

ケビン・クライン演じるコール・ポーターの、若かりし頃と老年時の違いには、びっくりした。まるで顔つきが違っていて、同一人物とは思えなかった。最後まで、別の俳優が演じているのではないかと考えていたのだが、エンドクレジットを見ても、コール・ポーターはケビン1人が演じていたことになっている。
恐るべし、老けメイクの技術、プラス、ケビンの老け演技、というべきか。
ケビン・クラインが老年になると、ああいう顔になるのか、と逆に面白く感じてしまった。

劇中で、コール・ポーターが言うセリフで、力を入れて書いた曲が売れずに、そうでない曲が売れる、というものがある。ある映画評サイトで、コール・ポーターが真面目に曲を作っていないような印象を持った、というような感想があったが、このセリフのせいなのだろう。
このセリフには、フォローの言葉がないので、文字通りにとると、彼が適当に曲を作っていたのではないかという誤解を招くかもしれない。
必死で作った曲が受け容れられず、それほど苦労しなかった曲が意外と簡単にヒットするようなことが、よくあったのだろう。力を入れなかった曲といっても、それは多分に謙遜や照れが含まれているに違いない。また、自分の自信作を分かってくれない世間への皮肉もあったのかもしれない。
自分の伝記映画を観て、ひどい映画だ、ということからも、この人の口は素直じゃあない、と想像ができる。

邦題についている「DE-LOVELY」は、原題であり、映画ではロビー・ウィリアムスが歌っている“It's De-Lovely”(イッツ・ディ・ラヴリー)という曲からとったものだが、邪魔なだけで、あまり意味がないと思う。「五線譜のラブレター」だけで充分。

映画は、大好きな20世紀フォックスのファンファーレと、最近はあまり見なかった、MGMのライオンが吠えるオープニングで始まる。嬉しい驚きとともに、往年のMGMミュージカルのような懐かしさあふれる音楽の世界へ誘われ、涙腺の弱い私は、相も変わらず、すぐに感涙の涙を流しながら、映画を観続けたのだった。

〔2004年12月18日(土) シャンテ シネ1〕


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