映画は、マリリンが亡くなったところから始まる。
「ライフ・アフター・デス」。死の後の生命。
彼女が亡くなった後も、彼女は生きている。世の中のあらゆるところに、記憶として、映画として、グッズとしても。
この映画が公開されたのは1994年だが、当時の人々が証言する「マリリン・モンロー」が、さまざまな形で浮き彫りにされる。
マリリン自身が動いて話す場面は少ないが、そうした映像のなかで注目されるうちのひとつは、やはり、ミルトン・グリーンの家からのテレビ中継ということになるだろうか。
ミルトン・グリーンはマリリンの写真を数多く撮った著名な写真家。
マリリンとともに、マリリン・モンロー・プロダクションを創立し、俳優を契約下に置いて支配するハリウッドに対して反旗を掲げたマリリンを援助した。
ハリウッドを出たマリリンは、グリーンの家に滞在していて、そこでのインタビューは、いわば特ダネ番組だった。その貴重な映像が見られる。
マリリンに関する本を読んでいて関係者の名前を知っていると、その本人が映画に出てきたりするのも面白いところ。
たとえば、ジェームズ・ハスピールという人がいる。彼は子どもの頃、マリリンの追っかけで、マリリンに気にいられて、ファンの少年という立場ながら、マリリンと親密だったという幸せな男だ。
その少年が、いまや中年となって、映画の画面の中で話をしているのだ。
この映画は、マリリン・モンローという対象を、他人の目から見て評価していくもので、少なくとも映画制作当時に、彼女が社会的に、どんな位置にあったのか、どう思われていたのかを知る、絶好の手がかりになるだろう。
ラスト近くで労働者風の男2人が言う。マリリンとはセックスだ、と。
彼らの言い方は、単なる欲望の対象としてのセックスとして、彼女をおとしめて言っているように聞こえてしまう。
だとすれば、私は、真っ向から反対するが、しかし、彼らのように思っている人たちがいることは確かなのだ。残念ながら。
たとえセックスの象徴だとしても、彼女は女神であり、天使である。そのあたりの感覚は、彼女を知っていかなければ分からないものかもしれない。
映画から10年が経つが、世の中でマリリンが占める位置は、ほとんど変わらないように思える。
彼女は、輝きを増すことはあっても、消えていくことはないだろう。
それほどに、彼女は稀有で純粋で夢のように儚(はかな)い美しい存在だったのだ。