インターネットのコミュニティmixiから始まって、上映を求めるためのホームページでの署名運動に広がり、とうとう日本での劇場公開が決まった作品。
私は、この映画のことは、2004年の12月には知っていた。ナショナル・ボード・オブ・レビューでベスト10映画の第10位に入っていたのだ。
ところが、なかなか公開されないので、そのうちにDVDで初登場するのかなあ、と考えていたものだ。
ネット上で映画の上映を求める運動があったなんて、映画が公開になってから初めて知った。
ネットのパワーもすごいが、運動を続けた人たちのパワーもすごい。
私が観たときは、シアターN渋谷(映画館「ユーロスペース」の跡をそのまま使っている)という小さな劇場のみの上映だったが、このあと公開劇場は増えていくようだ。
デンゼル・ワシントンなどの大物俳優を主演にしたらどうかという声に耳を貸さず、監督はドン・チードルを使ったのだという。
それによって、主人公が本当に、ごく普通の、どこにでもいるような人であることが感じられ(というと、チードル氏には申し訳ないみたいだが)、身近に思えるドキュメンタリー性を持った。
テリー・ジョージという監督を知らなかったので調べてみたら、「父の祈りを」(1993年)「ジャスティス」(2002年)などの脚本家で、監督作はテレビ映画など数本。それほどキャリアがあるわけではなさそうだ。
映画は、1994年のルワンダ大虐殺のとき、ホテルに約1200人をかくまった支配人の話。
主人公が人をかくまったのは、なかば行きがかり上といえなくもないが、彼に課せられた責任の重さ、自らの生死もかかった、そのプレッシャーとの戦いは、どれほどのものだったか、想像するに余りある。
でも、こうなったら、もう、やるしかない、という感じでもあっただろう。
そういう状態で、どこまでやれるか。それが問題なのだ。
民族が違うというだけで殺しあう。
特にこの映画に描かれたフツ族とツチ族は、見かけは変わらず、お互いの区別はつかないように思える。
それでも一国の支配が絡んでくると、民族同士が対立してしまうのは、どうにもならないことなのだろうか。
そこで単一民族の日本を考えてみると、しかし、たとえば一部の日本人ではない人たちについて、差別の目が残っている、その事実に気づく。
人間というのは、争いごとと無縁ではいられないのか。
ルワンダには国連軍もいた。だが国連軍は平和維持が目的。争いが起きても手を出すことができない。
内戦が大きくなってくると、いわゆる先進国の政府は、自国民をルワンダから引き上げさせる。
他の国はルワンダを助けない。
殺されそうになっている人々を助けない。
ホアキン・フェニックスが演じるカメラマンは、引き上げる際に嘆く。
何もできずに逃げるように帰るのは「恥ずかしい」と。
彼は、次のようなことも言っている。テレビ放送で虐殺の様子を見ても、視聴者は、ひどいことだね、と顔をしかめて、それで終わり。
しょせん他国の出来事でしかないのだ。ほうっておいていられるのだ。
先日に観た「スタンドアップ」同様、実際にあった事件を広く世間に伝えるという意義は大きい。
この映画を観るまで、こんな事件のことは知らなかった、と感想で語る人が、いかに多いかを見ても、たとえ10年前の話ではあっても、存在価値がある作品なのだろう。