フィリップ・シーモア・ホフマンが作家トルーマン・カポーティに扮して、アカデミー賞やゴールデングローブ賞などで主演男優賞を得た作品。
カポーティが、
ノンフィクション・ノベルの名作「冷血」(In Cold Blood)を執筆したのは、どのような状況のもとだったのかを描く。
ひとつの作品にかける作家の執念を、ていねいに描写していくのだが、はっきりいって、私にとっては、
総じて、それほどには面白くなかった。
カポーティの苦悩は、私には深くは響いてこなかったのである。わが脳みそは、刺激されなかった。
抑えた演技で、鈍感な私には伝わらなかったのでしょうか。(苦笑)
事件の取材に、のめりこんで、殺人犯の心のうちに入って理解しようと試みて本を書き、自分自身がダメージを受けたのか。
「冷血」を書いた後の彼は、続いて新作を書けず、アルコール中毒や薬物中毒となり、59歳で亡くなったことを思うと、「冷血」の取材執筆の影響が大いにあったのかもしれない。だけど、確証はないし、もし仕事でそこまで行っちゃったなら壮絶だが、一方で、
そこまでの作品をものすることができたのなら作家として本望なのかも?とも思う。
そこまで激しい宿命に、作家は出逢うことがあるのか。
映画としては地味で、全体の空気感は寒々しい。そこを魅力に思う人もいるだろうけれど…。
2人の殺人犯のうちのひとり、ペリー・スミスと面会を重ね、友人のように振る舞って彼の信頼を勝ち取り、話を引き出そうとするカポーティ。
スミスに聞かれても、本のタイトルは決まっていない、まだ、ほとんど書いていない、と嘘をつく。取材相手に会って、事件のことを取材する。それが第一の目的なのだ。
本を書くためなら、面と向かって平気で嘘を言う。それが作家たるカポーティの冷血か。
殺人犯に話を聞いて本を書く、ということは、めったにできないことに違いない。
究極のノンフィクションに挑戦することに、カポーティは、このうえない喜びを感じていたのだろう。
だが、スミスの死刑は、なかなか執行されない。カポーティは、本のエンディングが書けずに苦悩する。
果てには、死刑執行の現場に立ち会うはめになる。
好きで始めた取材とはいえ、ハードなことである。彼は
「冷血」を書き上げるまでに5〜6年を費やした。身を削る思いで作品に打ち込んだ。
カポーティといえば、私はすぐに、
マリリン・モンローさんと踊っている写真、を思い浮かべる。(「ぴあ」にも小さく載っていた。)
それと、「ティファニーで朝食を」「冷血」の原作者だということ。原作は、どちらも読んでいない。映画になった「ティファニー〜」は観ている。
両親が離婚し、遠縁の家を転々として育ったところは、ちょっとばかりはマリリンと似たような境遇だった。
予告編ではカポーティが、マリリンの家に行ったら、マティスの絵が逆さまで…などというネタを喋っていたが、映画ではマリリンとの関係について、それ以上は触れられていなかった。
この映画を観たのも、マリリンとつながりがあったカポーティという人が、どんな人間だったのかを知りたかったからで、その点では役に立ったといえる。
フィリップ・シーモア・ホフマンは、カポーティの独特の話し方、しぐさを演じているが、私はカポーティ本人のそれをよく知らないので、どの程度似ているのかは分からない。
それよりも新発見だったのは、
カポーティの幼馴染みで、事件の取材助手として同行した女性が、「アラバマ物語」を書いた作家だった、ということ。
彼女の名前は、ネル・ハーパー・リー。「アラバマ物語」(To Kill a Mockingbird)で1961年にピューリッツァ賞を受賞、1963年にはグレゴリー・ペックの主演で映画化もされた。「アラバマ物語」に出てくるディルは、カポーティがモデルと言われている。
映画でネルを演じるのは、
田中真紀子、違った、キャサリン・キーナー。
観ている間、ずっと、似てるなーと思っていた。
映画感想などを書いている「(趣味ですが)物書きの端くれ」としては、この感想、まとまってませんね。
カポーティには読ませられません。まだ、ほとんど書けていない、と言っておこう。