考えてみれば、太平洋戦争のさなかに硫黄島で戦闘があったことを、私自身は、聞いたことがある、という程度にしか知らなかった。太平洋戦争全体にしても、真珠湾とか空襲とか原爆とか、そのあたりのことしか知らないのだ。
私にとって、この映画は、硫黄島の戦いを大まかにでも知らせてくれたことに、まず意義がある。
小さな島であっても、日本にとっては本土と同じで、ここでアメリカを食いとめることが必要であり、アメリカにとっては爆撃機の護衛戦闘機の基地としての有用性もあったという。
硫黄島上陸時の戦闘は、「プライベート・ライアン」を少し思わせるような激戦。そういえば本作には、「プライベート・ライアン」の監督スティーヴン・スピルバーグが製作者として参加している。もしかして、イーストウッドに多少でもアドバイスをしたのかも?
色彩をグレー調に抑えた画面は、記録映画のように見えそうなリアリズムに加えて、イーストウッドらしい落ち着いた視線、それに、血の生々しさを感じさせない役割まであるのかもしれない、と思うのはオーバーだろうか。
いつ死ぬか分からない戦場の悲惨な光景と、並行して進んでいく物語がある。
島にある山の頂上に星条旗を掲げた兵士たちの写真。新聞に載ったその写真は、戦争に倦み疲れていたアメリカ国民に希望の光を届ける。
政府は、写真に映った兵士たちをヒーローとして帰国させ、戦争資金を集めるための広告塔にする。
ふと思ったのだが、アメリカの軍事資金は豊富ではなかったのか。国自体は富んでいても、戦争のための費用は不足していたということか。
帰国した3人の兵士の気持ちは様々だ。それなりに、この茶番に乗っかって生き抜こうとする男もいる。耐え切れずに酒におぼれる男もいる。
喝采を受ける3人の姿と、彼らの記憶によみがえる、戦場の光景のフラッシュバックの対比は鮮やかだ。
父親たちが語ろうとしなかった戦争を、こうして子どもの私たちが知る。
イーストウッド監督は、無残な戦争を経験した父親たちに、最敬礼と愛情を送る。
殺戮や戦争を止める力や意思に、この映画が少しでもなればいいと思うが…。
「戦争に英雄は、いない」。
イーストウッド監督のメッセージは、いつもながら、ていねいで実直だ。
ただ、予想した以上の驚きや感動は少なかった。
硫黄島で戦った兵士たちが、ヒーローに祭り上げられて…という、あらすじを知っていたうえで観ると、なるほど、そうなのね…という以上のものではなかったような気がするのだ。
あまり有名ではない俳優たちを起用したのはリアルさを生んだと思うが、スポットライトを浴びる主役3人以外のキャラクターについては、かなりの確率で名前と姿が一致せず、誰が誰で、どうなったのかが分かりにくかった。(ジェイミー・ベルが出ているのを後で知ったが、どんな役だったか思い当たらない。)
また、物語の語り手が終盤に(たぶん原作の)著者の視点に移っていて、これも分かりにくかった。
それと、オープニングに流れる、口ずさむような歌。これは日本語訳が欲しかった。
どうして、つけてくれないのだろうか。意味を知りたいと思うのは、観客みな同じではないだろうか。
これ、イーストウッドが歌っているという噂だが…?
とはいえ、イーストウッド監督らしいというか、質の良さは保っていると感じる。
彼の作る映画というのは、多くの観客にとって必ず、そこにまずイーストウッドがいる。有名な俳優であり、大きな存在として、そこにいるのを意識せずにはいない。
彼の視点や考え方が、映画の向こうに見えるように感じてしまう。彼の映画を観るときには、彼の顔が浮かんでしまう。
監督にも、いろいろなタイプがいるのだろうが、彼の場合は特に最近、その人間性が、作品に強く出るように思える。
そういう点において、近頃のイーストウッド監督の映画が楽しみでもあるのだ。
硫黄島の戦いを日本側から描くイーストウッド監督の2部作目である「硫黄島からの手紙」は、12月公開になる。
日本兵については、そちらでたっぷり語るからだろうか、「父親たちの星条旗」では、ほとんど触れられていない。(アメリカ兵に向かって突撃してきたり、自決後の日本兵の姿が発見されるくらいだ。)
私が観た映画館では、「父親たちの星条旗」の上映のあと、「硫黄島からの手紙」の予告編があった。
日本語が多い(ほとんど?)だろうから英語字幕も多いはずで、アメリカ人には観るのが大変だろうが、なるべく多くの観客が観てくれるといいなあ。
イーストウッドだから、だいじょうぶか。