クリント・イーストウッドという監督がつくる映画は、ぜい肉がないシャープな姿。
渋く、飾りがなく、不足もなく、客観的な目で、そのときにその映画で語りたい世界を、丹念に見せていく。
マカロニウエスタンのスターとして世に出た俳優が、こんな押しも押されもしない映画作家になるとは誰が予想しえただろうか。
1928年に実際に起きた事件。子どもが行方不明になり、帰ってきたと思ったら別人だった、という話。
背景には、ロサンゼルス警察の腐敗があった。よくあるところでは政治家もそうだが、権力をもった人間が堕落しやすいのは、いやになるほど見受けられるところだ。
仕事から帰ったクリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)は、息子がいなくなったことを警察に電話するが、すぐには捜査はしないと言われる。たいていは、そのうち帰ってくるから、というわけだ。確かにそうだろう。いちいち対応していたのでは、やっていられない。でも、たいていはそうでも、もし万一、事件だったらどうするのか。難しい仕事なのは分かるが…。
しかしアメリカというのは、映画で自分の恥部をさらすのをためらわないことが多い。ロス警察の汚点が本作では描かれているのだが、これはもう知られている過去だから隠してもしょうがない、というのもあるのだろうか。
ブリーグレブ牧師(ジョン・マルコヴィッチ)がラジオ放送で、腐ったロス警察を糾弾しつづけているのは面白かった。そういう自由は許されていて、そういうことをしている人がいた、という意味で。
自分の子じゃないと訴え続けるクリスティンに対して警察がとった策は、もはや、観ていて怒りを覚えるほどの、ひどい仕打ちだ。
彼女が経験する、その場所での出来事は、かつての、ある映画たちを思い起こさせた。まともな人間の尊厳さえ狂わせてしまうような場所。
やがて物語は、もうひとつの事件を追い始め、急展開を見せる。その見せ方も、うまい。いなくなった子がどうなったのか。
見どころは、もちろん、アンジェリーナ・ジョリーの演技。彼女ひとりの出来に、ほとんどの結果が、かかっているといってもいい、この作品。立派に役割を果たした。
お色気が前面に出た映画では、はっきりしないけれど、彼女は演技派なのは、いつも例に挙げるが「17歳のカルテ」(1999年)の昔から明白なこと。
大勢の子どもたちの子育て中でもあるアンジー、クリスティンという母親の感情に移入するのは容易なことだっただろう。
そういう彼女に役をオファーした製作側も、いい仕事だ。
もしかして、ここで終わるのかなと思ってから、もう一押し、ふた押し、と効果的にくる、よく練られた脚本。
ラストは、感動の涙とともに、希望を残していく。
もしも私が母親だったら、少なくとも親だったら、また女性だったら、もっとクリスティンの気持ちに同調したかも、と感じる。
チェンジリングとは、「取り替え子」のことで、ヨーロッパの伝承から。妖精などが人間の子をさらった後に自分の子を置いていくこと、または、その子のこと。赤ん坊交換。
電話交換手の仕事場でチーフをしているクリスティンが、たくさんの交換手たちの間をまわるためにローラースケートを使っていたのが面白い。へえ、そういうものだったんだなと。
また、映画の終盤のエピソード、1935年のアカデミー賞授賞式の日、クリスティンは作品賞が「或る夜の出来事」だと予想する。(クラーク・)ゲーブルと(クローデット・)コルベールが良かった、と。
我が家のブログ名のもとになった映画の名前が出たのは、うれしかった。