シャッター アイランド

SHUTTER ISLAND
監督 マーティン・スコセッシ
出演 レオナルド・ディカプリオ  ミシェル・ウィリアムズ  マーク・ラファロ  ベン・キングズレー  エミリー・モーティマー  マックス・フォン・シドー  パトリシア・クラークソン  ジャッキー・アール・ヘイリー  イライアス・コティーズ
原作 デニス・ルヘイン
脚本 レータ・カロブリディス
撮影 ロバート・リチャードソン
編集 セルマ・スクーンメイカー
音楽監修 ロビー・ロバートソン
音楽編集 ジェニファー・L・ダニントン
2009年 アメリカ作品 138分
好き度☆☆☆☆


(1回目)
原作を読んで、大きな秘密(?)を知ってしまっているのに面白かった。…のだが。

ストーリーを知ったうえで映画を観ると、視点が違ってくる。
あー、ここで、こういうことをしてるんだ、なるほどね。○○だからね。
と、そういう面白さで観ていた。
つまり、本来的な映画との接しかたとしては邪道になってしまっていたわけだ。
知らずに観ていたら、どう思ったのかを、逆に体験してみたかったなあ。私は先読みしないし、にぶいから、いろんなことに、まるで気づかなかったとは思うが。

ところが、私は、だてに原作を知っていたがために、思い込みに陥ってしまっていたようだ。
とくに最後は、原作のとおりになるのだろうと思っていて、微妙に変えられた言葉のニュアンスに気づかなかったのだ!
どうも、あとで偶然見たネット上でのラストシーンについての意見のやり取りからすると、ストーリーの解釈の違いを生む可能性のある改変があったのだった。

おもしろい。
まさに、この映画で、自分が思い込みにハマるなんて。
変えられた部分を、あとから知って考えてみると、それでも解釈は、ひとつではない気がする。いちばん有力な考え方は確かにあり、だとすると、すごく感情的にドラマティックになるのだが。

ラスト以外の部分でも、脚色は原作を変えているのかもしれない。そうすると、なんだか、さっぱり真実がわからなくなり、もう1回観たくなってきている今現在なのだ。もしかしたら、さまざまに解釈できるふうにしてあるのかもしれないし。
「この2本の棒は同じ長さです」などという、この映画の宣伝があったが、私の脳は、原作本のイメージに引っ張られて、都合のいい解釈をしていたかもしれない。

先にラストの話をしたが、最初に戻ってみると、オープニングで船に乗ってテディ(レオナルド・ディカプリオ)たちが島にやってくるシーンがある。
お、これは原作になかったようだけど、こんなことして、いいのかな? なんて思ったのだが、脚色で意図的に変えたとなると、これはどういうことなのか考える必要がありそうだ。

ストーリーの謎から話を離れる。
音楽が素晴らしく、雰囲気をうまく盛り上げてくれる。この映画の音作りは好きだ。エンディングでうたわれる歌もいい。音楽監修の人の名前は見たけど、じゃあ、作曲した人はいない? 既存の音楽を使ったの?

夢のシーン。これも素晴らしい。幻想的で美しかったり、怖かったり。夫婦の場面では泣けてしまった。
妻の役は、ミシェル・ウィリアムス。
余談だが、彼女が映画でマリリン役を演じるかもしれないという記事を以前書いた。(ミシェル・ウィリアムスがマリリン役に?)
ここに載せた右の写真などを見ると、もしかしたら、ちょっといい感じにマリリンができる…かもしれない。

原作者のデニス・ルヘイン自身が、製作総指揮者のひとり。ということは、この映画の脚本には少なからず納得しているはず。
いまのところ私の頭の中は、あの「シャッター アイランド=シャッターが下りた、遮断された島?」で起きたことが何なのか、わやくちゃになっている。

…とにもかくにも、スコセッシとディカプリオのコンビが一流なのは間違いないと思う。

〔2010年4月11日(日) MOVIX さいたま〕



(2回目)
エンドロールの、ダイナ・ワシントンの歌まで聴いてから席を立とう。
なぜ2回目かというと、前回観賞でラストのセリフを聞き逃したので、リベンジなのである。
聞き逃したといっても、もちろん聞いていなかった(字幕を見ていなかった)わけではない。その言葉の意味を考えずにセリフが頭を通り過ぎてしまったということだ。

TOHOシネマズのポイントは、3回くらいは無料で観られるほど溜まっているので、今回使う。
タダだから、2回観て、もったいないという感覚はない。もっとも、1回目で、おもしろく思ったから、たとえ、お金を出してもかまわなかった。
1回目と同様、字幕版。吹替えでもよかったのだが、上映時間の関係で。

本作は、日本公開時の宣伝の仕方に悪評が飛び交っている。
脳の錯覚とか、難しい謎があるのではないかと、観る前に観客に身構えさせるような、やり方。
そのくせ、結果は拍子抜けするようなものだった、というのである。
だいたい、謎というよりは、メインのそれは当然のごとく映画の中で解かれていく話なので、構えて観る必要はないのだ。周辺の、こまごまとした謎はわからなくてもいい。

私の場合は、原作を読んでいたから最初から話がわかっていて、拍子抜けも何も感じようがなく、構えて映画を観た観客が感じた気持ちは理解できない。
しっかりとした、哀しい人間ドラマで、それぞれの演技もよく、映像的にも音楽的にも、見応え十分な充実作としか見えない。

まず書き出しで触れておいたこと。これを一番言いたい。
エンドロールの途中から、ダイナ・ワシントンの歌う「This Bitter Earth」が流れる。
タイトルの意味は「この苦い地球…世界」? これは歌詞にも出てくる。
そして、「生きていることが何になる」(英語は堪能じゃないから、あやふやだが)
(上記訂正。あとから発見した歌詞によれば「私の人生がゴミみたいなものならば」という感じの歌詞らしい。脳内で意訳しすぎました。)
みたいな歌詞が聞こえてきた時点で、思わず、どっと泣けてしまったのだ。
エンドロールで一番泣ける映画とは! 参った。

なぜ歌詞の字幕を出さないのか。権利関係? 手抜き?
これは絶対に歌詞を字幕にして出すべき映画でしょう。映画の内容に、どっぷり関係して、余韻を残すどころか、盛り上げているのだから。

そういう以前に、エンドロールは観ないで帰っちゃう人も大勢いるけれど。
歌詞がわからなければ、観ていても、しょうがないという話になるけれど。
…もったいない。これは、今回は、すごく。

映画制作サイドとしては、エンドロールを観ない人がいるということを、はじめから念頭に置いて、エンドロールの中や、その後に時々置かれることのある「映画の続き(おまけ)」では、重要なことはやらないようにするべきなのではないだろうか。

エンドロールの歌の歌詞がいいので、最後まで席を立たないでください、なんてテロップを出したり、前もって映画館側が言うのは、やりにくいだろうしね。
しかも字幕がつかないんじゃ、宝の持ち腐れ(垂れ流し?)みたいなもの。

ああ、でも、、、もったいないよ。

ちなみに、映画で流れるラストの歌は、マックス・リッチャーの「On The Nature Of Daylight」(映画本編でも流れている寂しげなこのメロディは、私の心に響く。まさにツボなのだ)に、ダイナ・ワシントンの「This Bitter Earth」の歌をかぶせたもの。
サントラを買えばいいんだけど、買うことまではしないし。でも、気が向いたら買うか。

〔2010・4・25(日) TOHOシネマズ 六本木ヒルズ〕






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