ブラックホーク・ダウン

BLACK HAWK DOWN
監督 リドリー・スコット
出演 ジョシュ・ハートネット  ユアン・マクレガー  トム・サイズモア  エリック・バナ  ウィリアム・フィチナー  ジェイソン・アイザックス  サム・シェパード  オーランド・ブルーム 
撮影 スワボミール・イジャック
編集 ピエトロ・スカリア
音楽 ハンス・ジマー
2001年 アメリカ作品 145分
アカデミー賞…編集・音響(マイク・ミンクラー、マイロン・ネティンガ、クリス・マンロー)賞受賞
評価☆☆☆★

「世界の警察官」アメリカが、東アフリカのソマリアでの内戦に干渉した結果、起きた悲劇を描く。

東西冷戦時代、ソ連はソマリア民主共和国を手なずけておくために経済援助をしていた。アメリカもそれに対抗して援助を行なった。
1991年、ソ連が消滅すると、アメリカはソマリアを援助する必要がなくなり、手を引いてしまう。
その結果、ソマリアの中央政権は弱小化、内戦状態が激しくなり、モハメド暫定大統領派とアイディード議長派が対立するようになる。

氏族間抗争と干ばつで国土が荒廃し、30万人以上が餓死、100万人以上が難民として隣国に流出。飢えに苦しむソマリア国民を支援するために、国連は食糧を送る。
だが、アイディード派は、その食糧を奪い取るような独裁ぶりを発揮する。国連は1992年12月、多国籍軍を派遣、翌年には第2次の派遣を行なう。
アイディード派は干渉に反発し多国籍軍を攻撃、それに対してアメリカ軍は報復に出る。
人道支援の名目で派遣したはずが、攻撃・報復という事態になった時点で、多国籍軍は、本来の目的である監視的役割から大きく逸脱することになる。

そんなときに起きたのが、この映画で取り上げられた事件だ。
1993年10月。アメリカ軍がソマリアの首都モガディシオに乗りこんで、アイディード派幹部2名を捕えようとした。
この作戦でアメリカ兵に死傷者が出て、その遺体がソマリア人たちにひきずり回されるところを撮った衝撃的な映像はテレビに流された。


軍の上官がアイディード派幹部誘拐作戦の計画を説明する。総勢100名あまりで首都を急襲し、迅速に2名の身柄を確保しようというのだ。
夜だったら楽なのに、という兵士のセリフ。だが、幹部が確実に町にいるのは昼間なのだろう。
この作戦が結果的に、大間違い
真っ昼間に、敵の真っ只中へ乗りこむ危険度を予測していないうえに、敵の攻撃力を見くびってしまったのだ。
ヘリコプターが撃墜されることなど、予想もしなかったのだろうか。
計画を立てるヤツは、自分が行かないからといって、まじめに考えていないんじゃなかろうか。

ソマリア民兵が使っているロケット砲に対して、劇中、アメリカ兵たちは「RPG(アールピージー)!」と叫んで注意を促している。ロールプレイングゲームではない。たぶん、これは旧ソ連の携帯型対戦車用ロケット砲RPG-7だろう。これは建物や、低空にあるヘリコプターに対しても使われるという。
冷戦時代のソ連の置き土産だ。
それがアメリカ軍のブラックホーク・ヘリコプターに命中する。
2機が撃墜され、その人員救助のために、兵士たちは予定どおりならば、さっさと撤退するものを、敵がうようよといるなかに残って戦わざるを得なくなる。
昼過ぎに始まり、1時間もあれば終了したはずの作戦が、翌朝まで延々と続く戦争の地獄と化したのだ。

映画は、作戦が始まってから約2時間の間、容赦ない戦闘場面を描写し続ける
ここでは、俳優が誰でも、どうでもいいようなものだ。戦場では個性など関係ない。ひとりがひとつの武器であり、ひとつの駒にすぎないのだから。

スコット監督は最初から、アメリカ側から見た作戦という視点で、できる限りドキュメンタリータッチに撮ることを心がけていたという。
だから、ソマリア民兵側の死の悲しみは、ほとんど取り上げられない。彼らの気持ちがどうであったかは、観客が想像してみるしかなく、その一方的な映画のアプローチのしかたが批判されたとしても、しかたがない。だが、たいていの戦争映画は、どちらかの側に主眼を置いて見ているのではないか。

この作戦での最終的な死者は、アメリカ兵18(19?)人に対して、ソマリア人は500人とも1000人とも言われている。アメリカ側だけの悲劇なのではない。

無謀な計画から生じたひとつのトラブルが、収拾のつかない大きな惨事へ広がっていくさまを見せきる監督の力量は、さすがだと思う。
そして、たとえ映画のなかであっても、リアルで重苦しい戦闘を目の当たりにするのは、戦争を知らない私にとっては、きっと貴重なことなのかもしれない。

ある兵士は、仲間のために戦うのだ、と言う。ヘリコプターが墜落して敵に囲まれた仲間を救おうと、たった2人で救援に降り立った兵士たちも同じ気持ちだったに違いない。
だが、そもそもなぜ、仲間のために戦わなければならないことになったのか。そこが問題ではないか。
世界の平和を守るため?

ラストでは、交戦しながら走って撤退するアメリカ軍兵士たちを、ソマリア人たちが見ている。子供がはしゃぎながら併走する。
ソマリア人すべてが敵というわけではないのだ。武器を持ち、敵意を持った人間が、そこで、はじめて敵になる。敵かどうかは、銃を構えた瞬間にならなければ分からない。敵が軍人ではなく民兵であるときの戦闘の難しさだ。

そして、銃弾に当たるか当たらないか、当たりどころがいいか悪いか、戦場では、生と死は紙一重のところにある…


結局、1994年3月にアメリカはソマリアから撤退、翌1995年3月には国連も撤退する。
2000年8月にはソマリアに中央政権が復活したが、その支配は国の一部分にしか及ばず、国土の大部分では現在も氏族間抗争が続いている。
そして、2002年のいま、アメリカはソマリアに、アルカイダ、ビンラディンの影があると示唆し、テロ勢力を支援する国のひとつとして、潜在的攻撃目標対象国になる可能性を発表している。
〔2002年3月30日(土) ワーナー・マイカル・シネマズ 大井〕



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