めぐりあう時間たち

THE HOURS
監督 スティーブン・ダルドリー
出演 ニコール・キッドマン  ジュリアン・ムーア  メリル・ストリープ  エド・ハリス  スティーブン・ディレイン  ジョン・C・ライリー  アリスン・ジャニー  ミランダ・リチャードソン  トニ・コレット  クレア・デインズ  ジェフ・ダニエルズ  ジャック・ロベロ  ソフィー・ウィバード
撮影 シーマス・マクガーヴィ
脚色 デビッド・ヘア
原作 マイケル・カニンガム
音楽 フィリップ・グラス
編集 ピーター・ボイル
衣装 アン・ロス
2002年 アメリカ作品 114分
アカデミー賞…主演女優(ニコール・キッドマン)賞受賞
ゴールデン・グローブ賞…作品・主演女優(ニコール・キッドマン)賞受賞
英国アカデミー賞…主演女優(ニコール・キッドマン)・音楽賞受賞
ベルリン映画祭…主演女優(ニコール・キッドマン、ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープ)賞受賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー…作品トップ10・第1位
ロサンゼルス映画批評家協会賞…主演女優(ジュリアン・ムーア、「エデンより彼方に」と本作の2作が対象)賞受賞
ラスベガス映画批評家協会賞…主演女優(ニコール・キッドマン)・助演男優(ジョン・C・ライリー、「ギャング・オブ・ニューヨーク」「シカゴ」と本作の3作が対象)賞受賞
バンクーバー映画批評家協会賞…作品・監督・助演女優(トニ・コレット)賞受賞
サザンイースタン映画批評家協会賞…作品賞受賞
ボストン映画批評家協会賞…助演女優(トニ・コレット、「アバウト・ア・ボーイ」と本作の2作が対象)賞受賞
シアトル映画批評家協会賞…脚本賞受賞
USCスクリプター・アワード受賞
脚本家組合…脚色賞受賞
AFI(アメリカ映画協会)…ベスト10
ダラス・フォートワース映画批評家協会賞…ベスト10
ロンドン映画批評家協会賞…英国脚本賞受賞
評価☆☆☆☆★

映画はニコール・キッドマン演じる、実在した作家ヴァージニア・ウルフが入水(じゅすい)する場面から始まる。
1941年、彼女が59歳の時だった。
ヴァージニアは長い間、神経を病んでいて、ついに自分の人生に終止符を打った。

時はさかのぼり、ヴァージニアを含む3人の女性それぞれの、ある1日の話となる。
1923年、ロンドン郊外のリッチモンドでは、ヴァージニアが「ダロウェイ夫人」を執筆中だ。きょうは姉一家が遊びに来る。
1951年、ロサンゼルスでは、主婦ローラ・ブラウンが夫の誕生日のためにケーキを作る。
2001年、ニューヨークでは、編集者クラリッサ・ヴォーンがエイズにかかっている友人の詩人の受賞記念パーティーを開こうとしている。

自殺、逃避…彼女たちの取る行動を非難するのは、たやすい。
だが、他人を害する犯罪行為でない限り、個人の選択に対して、他人が何を言えるだろう
病気に冒されている人間が、近しい人に迷惑をかけたくないと思う愛情から自殺することは、残された方から見れば、自分勝手な考えにしか思えないかもしれない。しかし、なによりも本人自身も辛いから死を選んだのであろうことは、残された方も分かっているはずだ。

どんな人生を選ぼうとも、その責任は選んだ本人が負うのだ。自分の生き方が周囲の人間にどんな影響を及ぼすことになっても、それが自分の選択なのだ。
迷い、苦しみ、憎み、そして愛しながら、人生を選択する。
そうやって人は生きていく。

観ている間、涙が流れどおしだった。なぜ? 映画に感応したのだとしか言えない。映画を観て、よく泣くのは確かだが、この映画には、はまってしまった。
埋まらない空虚感(喪失感といってもいい)のなかで、せいいっぱい生きている人々の人生模様に浸りこんだ。
何人かの女性の生き方を描いた傑作という点からは、去年観た「彼女を見ればわかること」と似たような趣がある。
メロドラマ? 違う。その一言では決して片付けられない。
重くて、暗くて、2度は観たくない? ガキの考えだ。
それまで生きてきた時間の重みを抱えた、いくつかの人生というものを見せてくれる素晴らしい作品。偉そうに知ったかぶりをするわけではない。ただ、全身でそう感じているだけだ。

すでに観てから1ヵ月以上が経っている。うまく感想を書けないと思っていた。いつでもうまくは書けないが、いつもよりも書けないと感じていた。いま書き終わっても、この映画のことは、うまく書けていないと思う。
ただただ、核心をかすったままに長くなってしまうような気がするが、とにかく書く。

ヴァージニア・ウルフの小説「ダロウェイ夫人」は、(単語そのものが同じかどうかは知らないが、この映画の原題のごとく、)もともとは「時」と名づけられ、(映画のごとく、)朝に始まり夜に終わる1日の物語である。〔丹治 愛 、東京大学大学院総合文化研究科教授〕
生きる時代の違う3人は、「ダロウェイ夫人」によってつながっている。
たとえば、ヴァージニアが「(パーティーのために)花を買ってくるわ、とダロウェイ夫人は言った」と呟きながら執筆していると、次にローラが本のその部分を読んでいる場面になり、次にはクラリッサが友人に向かって「花を買ってくるわ」と言っている、という具合だ。
実際、ローラの場合にも、夫の誕生日で花を買ってきているので、「パーティーのために花を買う」という設定は3つとも同じになる。
これは1つの例だが、ローラもクラリッサも、ヴァージニアの考える「ダロウェイ夫人」に影響を受ける人生を送っている。
ローラの心を縛り、行動を起こさせる大きな理由も、ヴァージニアが考える小説の構想のなかで説明されている。
そして詩人の運命さえも、ヴァージニアが握っているのだ。

原作はピューリッツァ賞とペン/フォークナー賞を受賞したというから、もともとが優れものなのだろう。だが、それを、しっかりと映画として仕上げたことが素晴らしい。
見事な脚色、美しい映像、心に染み入る音楽、堅実な演出、素晴らしい演技者たち。映画が総合芸術であることを、改めて感じさせてくれる傑作だ。

ふと気がついたのは、時計の音だ。コチコチと、時計が時を刻んでいる。気にならないくらいの小さな音で。題名の“The Hours”が象徴するように、3つの時代には、同じ「時」が貫き、流れているのだ。時代が変わっても、ヴァージニアの精神に共鳴する人生が、そこにはある。
時計の音はまさしく、その象徴に思えた。

ニコール・キッドマンは、つけ鼻をして顔のイメージを変えている。顔を変えるというのは、外見が自分ではなくなるということで、自分を離れて他人を演じるには、けっこう役に立つのではないだろうか。
精神に不安を抱えた実在の作家を、堂々と演じていた。
創作によって、なおも自らの内面を探求し、えぐりだし、傷つけることになろうとも後退はしない。精神の病に苦しみながらも、自分の生き方を貫こうとする鋭さ。
小鳥の墓に横たわる場面、姉一家が騒々しくする後ろで1人ぽつんと孤独のなかにいる場面、胸の奥に溜まった気持ちを夫に吐き出すようにぶつける場面などが印象的。召使との関係性の表現も上手い。
もはや演技派の大御所ともいえそうなメリル・ストリープにも決して引けを取らない貫禄で、物語の「核」となった。

ジュリアン・ムーアは普通の主婦の役。優しい夫と子供に恵まれて幸せに暮らしているように、傍(はた)からは見える。だが、彼女は、心のうちに充満する空虚感を感じている。自分が自分として生きていないと感じる虚しさ。曖昧(あいまい)な不安。
1950年代という時代も、現代と違って、女性がさまざまな拘束から自由に振る舞うことができない環境であるのだろう。
彼女の役がいちばん難しい。言葉で表わすことができず、表情だけで演じなければならないのだ。そして、ジュリアン・ムーアは最高の演技を見せてくれる。
これまで「ハンニバル」や、お遊び映画の「エボリューション」での、どうでもいいような彼女の演技しか見てこなかった人なら、彼女の真価を知る機会がなかっただろうから、さぞや驚いたに違いない。私はこの映画での彼女の演技を観て、溜飲を下げた。見たか? そうなのだ、これが本当のジュリアン・ムーアなんだよ、と。
表情で語りきったジュリアンは、まさに、まさしく絶品だった。
同じく1950年代の主婦の役で数々の賞を取った「エデンより彼方に」の公開(7月12日)が俄然、楽しみになった。

トニ・コレットが演じる、ローラの友人の主婦キティがローラの家を訪ねてくる。色の調子がはっきりした「総天然色」という感じの色彩の画面のせいもあって、昔、テレビドラマで見た1950年代あたりの典型的な中流家庭の主婦って、なんとなくこんなふうだよなあ、というイメージがばっちりで、とても感心した。
トニは、短い出番なのに、見た目も演技も、鮮明に印象に残る役だった。あとで、いくつかの助演女優賞を取ったと知ったが、それには全面的に納得、何の不思議もなかった。
ジュリアンとトニの共演場面は、見所のひとつである。

メリル・ストリープは、いつもながらの安定感ある巧さ。もはや、その巧さが小憎らしい、などというのを通り越している存在。
彼女の役名のクラリッサというのは「ダロウェイ夫人」の主人公の名前なのである。エド・ハリスの演じる詩人はリチャード。小説では、主人公クラリッサの夫の名前だ。
そんなわけで、リチャードはかつて、クラリッサのことを「ダロウェイ夫人」と呼んだ。それからクラリッサは「ダロウェイ夫人」に縛られることになる。

エド・ハリスとメリル・ストリープ、2人の場面も見応えがある。愛と束縛、そしてエド・ハリスの演技から何よりも感じたのは、人生の選択とは、つまり「人間の尊厳」なのだということ。
エド・ハリスは、エイズに冒された役を演じるために、かなり痩せたのではないだろうか。役柄によって体重を調整する俳優が最近は珍しくなくなったが、とてもリアル感があった。
ローラの生きた1950年代と違って、何でも思うままに主張して生きることができるように思える現代のクラリッサでも、愛する詩人のために何かをするときにだけ、生きている実感を感じるという空虚。
この空虚感というものは、ヴァージニアからローラへ、そしてクラリッサへと、時を越えて、連綿と続くのだ。

ヴァージニア・ウルフには、同性愛的な傾向があったという。映画でも、ヴァージニア、ローラ、クラリッサともに、その資質を示す場面がある。ローラとクラリッサが必ずしも同性愛的である必要はないと思うが、2人にヴァージニアの精神が共通して流れていることを表わすための仕掛けなのだろう。

ところで、ヴァージニアの姉ヴァネッサが連れてくる子供は3人。いちばん下の女の子が、すごく可愛い。ソフィー・ウィバードという子で、映画撮影時は、たぶん8歳。
彼女の新作は“Peter Pan”(ピーター・パン)のジェーン役らしい。ウェンディの娘か? ティンカーベルを「8人の女たち」のリュディヴィーヌ・サニエが演じるのも興味があるが、他にスターが出ていないようなので、日本公開は期待できないかもしれない。

フィリップ・グラスの音楽は、ピアノと弦楽器で映画を彩る。
彼は、ジュリアード音楽院で学んだが、ラヴィ・シャンカールの影響を受けて非西洋音楽も勉強している。一定のフレーズを繰り返すミニマルという実験音楽的な現代音楽の旗手であるらしい。映画音楽も「クンドゥン」「トゥルーマン・ショー」などを手がけている。
この映画では、流れるように美しい音楽を聴かせてくれる。その音楽を聴きながら、これまた美しい画面を観るだけでも感動的だ。

私がいちばん好きな場面は、クレア・デインズが演じるクラリッサの娘ジュリアが、リチャードの母親を抱きしめる場面だ。
ジュリアは、リチャードの母親の悲しみの理由のすべてを知るよしもないのだが、悲しみに暮れているであろう彼女を目の前にして、とにかく抱きしめずにはいられない。
この場面は素晴らしい。
いいなあ、と思う。
ここに人間の優しさがある。限りなく無垢で尊いものがある。
この優しさ、慰めが、リチャードの母親の心を、ほんの少しでも、きっと救ってくれる。
そう信じたい。
ジュリアの存在は、まさしく、光差す希望のエネルギーか。

最上質な人間ドラマだ。
〔2003年5月25日(日) ワーナー・マイカル・シネマズ 大井〕



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