ドッグヴィル

DOGVILLE
脚本・カメラオペレーター・監督 ラース・フォン・トリアー
ナレーター ジョン・ハート
出演 ニコール・キッドマン  ポール・ベタニー  ステラン・スカルスゲールド  パトリシア・クラークソン  ローレン・バコール  クロエ・セヴィニー  ベン・ギャザラ  フィリップ・ベイカー・ホール  ハリエット・アンデルソン  ブレア・ブラウン  ゼルイコ・イヴァネク  ジェレミー・デイビス  ショブハン・ファロン  クレオ・キング  ビル・レイモンド  シャウナ・シム  マイルス・ピューリントン  ジャン・マルク・バール  ウド・キアー  ジェームズ・カーン
撮影 アンソニー・ドッド・マントル
編集 モリー・マレーネ・ステンスガード
2003年 デンマーク作品 177分
評価☆☆☆☆
カンヌ映画祭…パルム・ドッグ(最高の演技をした犬に与えられる賞を、モーゼが受賞)
ヨーロッパ映画賞…監督賞

◎物語
町のことを聞きたいって?
そう、小さな町さ。人間は十数人しかいなかった。町の先は危険な山道だ。言ってみれば、世界の行き止まりに位置する町みたいなもんで、他の人間なんか、めったに来ない。
刺激が少なくて退屈だが、それはそれなりに、うまくやってたんじゃないかな。

よく道を散策してた若い男がいた。こいつは真面目ヅラしてるが鼻持ちならない奴だ。噂によると、ものになりそうにない本を書いてたらしい。神父でもないのに、町の人々を集めては教訓かなにかを垂れて、町の人々を教育しようとしてる。よけいなお世話の、うざったい野郎だよ。よかれと思ってしてることが、実はちょっとした迷惑なんだということに気づいてないから、おめでたいね。町の人々もヒマなのか、誰かが行くと仲間はずれになるのが嫌なのか、話を聞きに行くんだよな。

そんな小さな平和を保ってきた町に、ひとりの闖入者(ちんにゅうしゃ)がやってきたわけだ。
すべては、ここから崩れていった。
銃声がして、女が誰かから逃げてきたんだ。例の、よけいなお世話野郎が親切をふりまいて、彼女を助けてやろうとする。町の先の道は危ないからという、ちょうどいい理由もあって、彼女をかくまおうとするわけさ。

これが若くてきれいな女だったから、男の純粋な親切心だけから出た申し出とは言いきれないね。美女の前には、たいがいの男なんて、一も二もなく降参するものだからな。
だけど、奴が彼女をかくまおうと思っても、他の人たちが協力してくれなきゃ、どうしようもない。
みんなで話し合った結果、彼女に町の人々たちの手伝いをさせて、彼女がどんな人柄なのかを見極めようということになった。期間は2週間だ。

誠実に町の人々に接した女は、やがて小さな町の小さな社会に受け入れられるようになっていったよ。
しかし、現実は甘くない。町に彼女の指名手配書が回ってきた。そうすると現金なもんでさ、手配書を無視する危険を冒してまで女をかくまっていていいものか、という思いが町の人々の中に湧いてくるんだ。

あとは、ま、どんどん町の人々のエゴが噴き出してくるのさ。
カゴの鳥状態の美女がいて、その女の弱みにつけこめるとなったら、男がどうしたくなるか、わかってるだろ?
彼女が、いったいどんな目に遭うのか、そして、どんなとんでもない終局を迎えるのか。
みんなの行動は、なかなか面白いぜ。
なんせ興味があったのよ。俺は、ずっと町の人間たちを見てきたからさ。
時には吠えながら、時には尻尾を振りながら。
そこは「犬の町」って名前を持つ町だったが、犬の俺より根性の悪い「犬畜生みたいなケダモノどもの町」って意味じゃなかったのかな。(犬畜生なんて、自分を悪く言う言葉なんで、あんまり使いたくないんだがな。)

◎観賞直後の簡単な感想
映画のセットの件と、ニコール・キッドマン、ポール・ベタニー、クロエ・セヴィニーが出ていること以外は、まったく何も知らずに観た。
そしたらまあ、観た後に調べたら、ええっ、あんなスターが出ていたの! と驚くばかり。しかも観ている間、気づかないなんて、どうかしてる。
最初は、普通の映画とは違う雰囲気に、ちょっと疲れて、脳がマヒしてほんの少し眠気がきた。が、だんだん面白くなってくる。
変なセットにもすぐに慣れる。

まず思うのは、ナレーションが多い。ひょっとすると、本の読み聞かせのようでもある。とすると、これは本当は恐ろしい大人のための童話のようでもある。ナレーターが何とジョン・ハートとは、もちろん、後で知ったことだ。

ニコールはきれいにしていなくても、芯から美しい。「めぐりあう時間たち」を経て、まさに、演技者として充実していると思う。
彼女の役名はグレース。グレースという単語には、親切、慈悲といった意味もあるが、映画ではそれが皮肉な象徴に思えてくる。

そして、ラスト。これはすごい。まったく思ってもみなかった展開。ああ、すっとした、という気持ちになるが、そういう自分に気づいて、落ちついて振りかえってみると、ぞっとする。人間というのは、そこまでやってしまうか。
人間の本質を容赦なく引っ剥がして、まったく甘っちょろくない。
一見、同じトリアー監督の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のラストほどショッキングではないが、ほんとに、人間っていったい…と考えさせられる。
私は好きだ。

いちおう舞台をアメリカの町ドッグヴィルとしているので、アメリカを批判している映画、と単純に怒る人がいるらしいが、浅はかな考え。これは人間全般に通用する話だ。

◎観賞後しばらくしてからの難しげな感想
どんなに善意に満ちているように見えても、人間は復讐心や悪意に動かされることがある。
それは普遍的な事実だ。たとえば、それを今の世界情勢に重ねて見ることも可能だろう。
この映画は、その事実を劇的に見せてくれる。

面白い。といっても、単純な意味での面白さではない。まず、映画のセットがユニーク(すぎる)。ただ1つのセットがあるだけ。しかもそれは、床に線を引いて、家や道の輪郭と、その名称を書いただけのもの。ほんの少しの家具類があるが、壁はない。
映画としては異色だが、演劇の舞台だと思えば、それほど変でもない

きちんとした町のセットがなければ、観客が自分で町を想像することができるし、登場する人間だけに集中して映画を観ることができる、とは監督の弁だが、たしかにカメラが追うものは人間のほかにない。そこから生み出される緊迫感・集中度は高い。
普通ではないセットに立たされた俳優が不安や焦燥にかられて、生々しい自分自身を出してくることも、監督は期待しているのかもしれない。
そういう意味からも、この映画は、実験的な性格を多分に持っている。

ラース・フォン・トリアー監督とは、いったい何者なのか。私は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と「ドッグヴィル」しか観ていないのだが、この2本に関して言えば、明らかに普通の映画とは違った。
この2本の映画では、極端な状況を設定すること(「ダンサー〜」では、主人公はほとんど盲目であり、犯罪に巻き込まれる。「ドッグヴィル」では、行き止まりの町という閉鎖的な環境に、ひとりの美女が投げ込まれる)によって、普通ではなかなか表に現われてこない人間の愚かしく悲惨で残酷な一面を、観客に突きつける。
トリアー監督にとっては、人間のそうした面こそが、彼の映画で語るべきことなのだろう。そうした問題を提起せずにはいられないことの裏には、たぶん、何らかの光明をつかみたいと、もがきつづける彼自身があるのかもしれない。そうすると、トリアー監督というのは、自分に対して、じつに真面目な人なのではないだろうか。

「ドッグヴィル」は、トリアー監督の「アメリカ3部作」と名づけられた第1作目。第2作目以降もニコールの主演で、と監督は希望したらしいが、ニコールが出るかどうかは不明。
カンヌ映画祭の会見席上で、この後も出てほしい、と監督が言ったのに対してニコールは、分かったわ、と答えてはいるようなのだが。
ニコールがトリアー監督の映画に出たいということで今回の出演になり、監督との相性も悪くなかったようだが、やはり俳優にかなりの精神的疲労を強いる、この監督の映画に続けて出るのは、かなり気が重い、というのが本当のところなのかもしれない。

〔2004年3月6日(土) シャンテ シネ1〕


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