イン・ザ・カット

IN THE CUT
監督 ジェーン・カンピオン
出演 メグ・ライアン  マーク・ラファロ  ジェニファー・ジェイソン・リー  ケビン・ベーコン  ニック・ダミチ  シャーリーフ・パグ
撮影 ディオン・ビープ
音楽 ヒルマル・オルン・ヒルマルソン
原作 スザンナ・ムーア
脚色 ジェーン・カンピオン  スザンナ・ムーア
2003年 アメリカ作品 119分
評価☆☆★

メグ・ライアン。まず女優最優先で映画を選んで観る(?)私であるが、そのなかでも、とても好きな女優のひとりだ。
親しみやすさ、可愛らしさを前面に出して、ラブコメ(言わなくても分かると思いますが、ラブ・コメディのことです。ラブ・コメディが分からない?…もう分からないままでいいです…)の女王としてハリウッドに君臨してきたメグちゃん。彼女のことは、こちらも親しみを込めて、「メグちゃん」と呼ぶのが、いちばんふさわしい。
「戦火の勇気」など、ラブコメではない作品もあったけれど、まだまだ彼女のイメージはラブコメのメグちゃんだ。

その彼女が、大きなイメージチェンジを狙って出演したと思える作品が、この「イン・ザ・カット」。
生々しい「女」を描くのが得意な女流監督ジェーン・カンピオン(やはり、ホリー・ハンター主演の「ピアノ・レッスン」が印象的)は、ニコール・キッドマンをイメージして原作を脚色したというが、ニコールは結局、製作者のひとりとして名を連ねただけ。
金銭面で応援することになったのは、出演しないけど、これで勘弁してよ、という意味だったりして。
いまノリに乗っている女優としては、いまさら、ヌードが注目の的になるであろう「イン・ザ・カット」のような映画は避けて正解だったに違いない。

チラシに書いてある「イン・ザ・カット」の意味を転記してみる。
in the cut:〔割れ目、秘密の部分、安全な隠れ場所〕
ギャンブラーが、他人のカードを盗み見るときに使う言葉。意味は隙き間、隠れ場所。語源は女性の性器。転じて、人から危害を加えられない、安全な場所のこと。

ニューヨークの大学で文学を教えているフラニーは30代の独身女性。彼女は詩や言葉を集めることに熱中している。いまも、ひとりの生徒からスラングを教えてもらっているところだ。
スラングとは、隠語、俗語のこと。セックスや麻薬などのタブーに関する内容が多く、公衆の面前では使いにくい慣用表現。もともとは奴隷制当時、奴隷たちが白人の主人に会話の内容が分からないように話した言葉なのだそうだ。だからフラニーが知らないスラングもあるというわけだ。
あるとき彼女は、バーの地下の暗闇で、男女の情事を目撃する。衝撃を受けながらも目を離すことができないフラニー。
翌日、刑事が殺人事件の件でフラニーを訪ねてくる。殺されたのは、フラニーが覗き見た情事の女性だった…。

女性の抑圧してきた「性」が、ある出会いによって噴き出してくるのを描くのが主題なのだろうと思うが、どうも、いまひとつ面白くない。
話としても、猟奇殺人を扱った映画に、ありがちなストーリーだった。猟奇殺人が絡んだ映画は今時珍しくなく、観るほうも免疫ができている。殺人そのものを売りにせず、他のところで、よほどしっかりしたテーマが語られていないと、つまらない。
この映画も殺人自体を売りにはしていないが、では、他の部分がよかったかといえば、そうでもないといわざるをえない。犯人は誰だ?的な興味は少しあるが、盛り上がりには欠ける。

この作品が狙っているのは、ヒロインの性的願望が開放されていく過程。そこに焦点を当てているのは分かる。
タイトルが意味していることは、文字通りのセクシャルな意味とともに、「安全な隠れ場所」から踏み出して危ない男との情事へと冒険していく、ということでもあるのだろう。
だが、肝心な、そのあたりの彼女の心情に対して、観ていて、なにか共感が生まれてこないのだ。
男性だから分からない、共感も何もあったもんじゃない、という面もあるのかもしれないが、それでは男性客はこの映画から締め出されることになる。それは、仕方がないのだろうか。
女ってば、こういうこともあるんだよ、と、ただ納得していればいいのであって、それ以上は無理なのか。

ヒロインの相手役が、あまり魅力的に見えなかった。彼女を惑わせて情事へと誘い込む相手としては、これはかなりの減点要素。
性的な関係に疎遠だった自分に近寄ってきた男、しかも、その男は危険な香りがする。そのあたりが、女の眠っていた情欲の火に油を注いだ形なのだろうけれども、もっときっちりと、主役らしい風格を備えた俳優を使ってほしかった。
メグ・ライアンというビッグネームに釣り合う相手とは思えない。
これが現実の世界ならば、どんな見かけをした男に対しても、女が惹かれることはあるだろうけれど、これは映画だ。
メグ・ライアンの相手が、ちゃちな男では納得できない。

メグちゃん、と、ちゃん付けするのは似合わないくらい、この映画で彼女は「ひとりの女」。ラブコメのメグちゃんに接してきたファンには新鮮ではある。
新しい女優の道を開拓しようとする彼女のチャレンジ精神は買う。
が、映画的に、いまひとつの感が否めないばかりに、彼女のセクシーなシーンや、おっぱい丸出しの熱演のみに関心が移りそうな気持ちにもなるのが寂しい。
いくつになろうが、メグちゃんはラブコメの女王でいいじゃないか、と思うのは勝手な意見なのだろう。若さがなくなってくれば、ラブコメで演じられる役柄は、だんだんと減ってくる。ヒロインにはなりにくい。とくに、ハリウッドという興行成績を重視する世界では、その傾向は顕著に違いない。

さて、もしもニコール・キッドマンがこの役を演じていたら? 同じだったのではないか。女優1人の演技を入れ替えただけでは、この作品の印象は変わらない気がする。

ストーカーっぽい男の役で、ケビン・ベーコンみたいなヤツが出ていたのだが、あとで調べたら、まさにその本人だった! まさか、こんな役で出演するとは思ってもいなかったので、まるで本人とは思わなかったのだ。字幕に彼の名前は出ていないはず。

お気に入り女優のひとり、ジェニファー・ジェーソン・リーがヒロインの異母妹役で出演、ひさしぶりにお顔を拝見して嬉しかった。
彼女は、戦争を描いたテレビドラマシリーズの傑作「コンバット」のサンダース軍曹役、ビック・モローの娘。「ルームメイト」(1992年)でのサイコ女が印象的で、そのときから気になっている女優さんだ。少し崩れて屈折した感じの役がピタリで、今回は姉と対照的に(あくまで「見かけ」の話だが)、男好きでセックスにも開放的な女性を演じていた。

冒頭とエンドクレジットで流れる歌「ケ・セラ・セラ」は、短調にしてあるのか詳しくは知らないが、寂しげで少し異常な雰囲気もある。この歌を使った意味は何なのか。単なる雰囲気か。それとも、歌詞のとおり、「なるようになる、先のことは分からない」ということなのか、「小さい頃、おかあさんに聞いたの…」ということに関係があるのか。そういったことを含めた、ヒロインの心象風景かもしれない。

スケートをする両親のイメージで、怖いところがある。
ヒロインの心理面を表現するのには、最も劇的に成功していた場面だと思う。実際の話、印象が強い場面は、そのあたりしかないわけなのだが。

そういえば、メグちゃん、唇を整形したという話がある。たしかに、少しぷっくらとしているようだ。どうなんだ? うーん…、まあ、いいか。

〔2004年4月4日(日) 丸の内ピカデリー2〕


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