砂糖菓子が壊れるとき

監督 今井正
出演 若尾文子  原知佐子  津川雅彦  藤巻潤  田村高廣  志村喬  船越英二  山岡久乃  根上淳  田中三津子
原作 曽野綾子
脚本 橋田寿賀子
撮影 中川芳久
音楽 渡辺岳夫
1967年 大映作品 97分
評価☆☆★

マリリンの半生をモデルにして、曽野綾子さんが書いた小説の映画化。
この映画のビデオ、DVDは出ていないようで、マリリン・モンロー・ファンとしては、今まで観たくても、なかなか観る機会がなかった映画だ。加えて、原作(新潮文庫など)のほうも欠品状態のようで寂しいかぎり。(私は図書館で単行本を借りて読んだことがある。)

今回上映されたのは、ラピュタ阿佐ヶ谷という映画館。まさに天空の城、のようなユニークな外観で、劇場内は折り畳み椅子を追加しても50席ほどしかない、こぢんまりとしたスペース。
スピーカーが段ボールで出来ている、と紹介されていた。

観に行った日は上映期間の最終日。もともと1週間だけの上映のうえ、この日は土曜日ということもあったのだろう、満席になった。
マリリン・ファンのお友達に、ばったりと出会った。というより、この小さい映画館だったら、必ず知人には気づくに決まっているのだが。
観客のなかに、マリリン・ファンはいったい何人いるのだろう。マリリンをモデルにした話というだけで興味を持って観に来るという、好奇心旺盛なファンが。…いまは少なくとも2人か。
公開初日の日曜日に、知り合いのマリリン・ファンが約2名観に来たという話を聞いているので、とりあえず約4名。

観終わって、はっきり言えば、うーん、あんまりたいしたことないなあ…という感想。
とにかく、見せ場がない。
まず、ヒロインが映画の役をもらえるチャンスで、オーディションを受けるのだが、肝心のオーディションで、ばっちりと決める場面は、なし。その直前で、すっぱりとカットされて別の場面に移っている。
ここで思い出したのは、大傑作「マルホランド・ドライブ」で、ナオミ・ワッツ嬢が演じた濃密きわまるオーディションの場面だった。あそこまでやらなくてもいいが、少しは見せてくれよ、という気分だった。

つぎは、ヌード写真を撮っていた件がばれて、記者会見になる場面。ここも記者会見が始まる直前で場面は転換してしまった。ヒロインの会見での発言は聞けなかった。
なぜカットするかなあ。見せ場をカットして、ひとりの女の半生を、ただするすると平坦に追うだけになってしまう。
上映時間97分という短さでは、物語の表面をなでることしかできないのだろうか。手抜きとは思いたくないが。

ヒロインが妊娠したと喜んでいたら、すぐ次の場面では、子宮外妊娠だった、となる。早すぎる。
これでは余韻もなにもない。さっさと話を進めているだけだ。

部屋のなかの荷物をまとめて引越しの準備をしているのに、引越し業者には全然連絡をしていない、というエピソードなど、ちょっと天然に抜けたようなあどけなさ、可愛さが、マリリンっぽさを出していて、笑えるところもあった。

思い入れのあるマリリン・ファンならいざしらず、映画自体を客観的に観るであろう普通の観客からすれば、たいした映画ではないといえそうな気がする。
大映の豪華俳優陣が出演していて、それぞれ頑張ってはいるけれども、表面的な演出とあいまって、演技も表面的に見えてしまったのではないか。

砂糖菓子が壊れるとき、という題名は、優れものだと思う。
「ふんわりと甘い」ことを想像させる砂糖菓子という言葉は、まさにマリリンのイメージ。それが、壊れる。つぶれるのでもなく、溶けるのでもなく、壊れる。それは、ひとりの人間の精神が壊れ、肉体まで壊れて、滅びてしまう状態として、ぴったりに思えるのだ。


映画では、マリリンの半生と同じような出来事が多いので、とくにマリリン・ファンの方にはストーリーは分かっていると判断し、以下に、あらすじを割合と詳しく書こうと思う。話の筋は知りたくない、という方は、読まないほうがいいかもしれません。

千坂(ちさか)京子と、マリリン
若尾文子さんが、美人だが最初は売れない女優の千坂京子を演じる。彼女がヒロインであり、マリリンだ。
若尾さんはスターで、美人で、悪くはないが、もっと本質的にマリリンを思わせるような、役に合った女優はいなかったかなあ、とも思う。難しい注文だが。
日本のスター女優が演じる擬似マリリンは、どんなものか? というのが、いちばんの見どころといえる。
若尾さんのモンロー・ウォークは見ものだ。

吾妻(あずま)と、トム・ケリー
映画は、千坂京子が、ヌード写真撮影でカメラマンのところにやって来る場面から始まる。
カメラマンの吾妻(根上淳)が、マリリンの有名なヌード写真を撮ったトム・ケリーということになる。
貧乏なのに、彼氏にもらった毛皮のコートは手放せない。写真を撮るので服を脱ぐとき、着ているのは毛皮のコートだけ、というところからして、すでにマリリン風イメージが発散される。
ちなみに、京子のヌード写真は合成で、若尾さんのボディではないと思う。

工藤と、ジョニー・ハイド
京子は、工藤(志村喬)という映画プロダクションの男に出会う。彼は映画界の実力者だ。京子は工藤の愛人になるが、彼は心臓の発作で倒れてしまう。工藤は、マリリンの場合には、ジョニー・ハイドだ。
ハイドは敏腕のエージェントで、マリリンを売り出すのに尽力した。マリリンは「アスファルト・ジャングル」や「イヴの総て」などの注目作に、脇役で出演させてもらえるようになる。
映画では、死の直前に数時間だけの結婚を申し込む工藤に対して、京子は「あなたは元気になって、違う人と結婚するの」と泣いて拒否する。結婚すれば手に入る莫大な財産も彼女の眼中にはない。
無垢で純真すぎるマリリンの一面をよく表わす場面。
京子が工藤の葬式で取り乱し泣き叫ぶ場面も、とてもマリリンらしい。


京子と親しくなる記者の奥村豊(津川雅彦)こと通称「奥ちゃん」は、京子のマネージャー兼友人という立場の酒井春江(原知佐子)とともに、全編を通して京子を見守っているような役どころだ。
若い津川さんを、はじめて見た。最近の風格のある津川雅彦しか見たことのない私には、とても新鮮に映った。
奥村は京子と一時深い仲になるが、次第に彼女から距離を置き、友人として付き合うようになる。単なるプレイボーイではなく、彼女と真剣に付き合うことの難しさを本能的にも理解していた男であり、彼女に対して誠実だった、と思いたいところだ。

工藤を失った寂しさを紛らすためもあって、京子は大学で勉強を始める。いままでろくに勉強などしていなかった反動なのか、彼女は勉強に熱中していく。
天木(あまぎ)教授(船越英二)の知性に憧れるが、結局、彼も京子の肉体を欲する俗物だと知った京子の心の瑕(きず)は深い。

土岐(とき)と、ジョー・ディマジオ
次に登場するのは、野球選手の土岐(藤巻潤)。野球選手、というだけで、もうこれはジョー・ディマジオ。
出てきた瞬間から、こいつが京子と結婚するんだね、と思ってしまう。藤巻さんは、いかにもスポーツ選手、という雰囲気で、ぴったりだった。
ディマジオが、自宅に客を大勢呼んだり、テレビを見るのが好きだったり、というところは、以前読んだことがあるマリリンとディマジオの新婚生活と同じような描写だ。
京子を独占したい土岐にとって、彼女が女優の仕事で世間に露出することは、耐え難い嫉妬心を生む。たどりついた結果は、離婚。彼は単純で素直で、嫌なことには耐えられない、ある意味、子どものような性格があったのだろう。もっと、嫉妬深くなかったらよかったのに。

五来(ごらい)と、アーサー・ミラー
京子は、作家の五来(田村高廣)と知り合う。マリリンと結婚する作家、とくればアーサー・ミラー。
五来には妻(山岡久乃)がいた。三角関係の問題を3人で話し合う(!)場面の山岡さんは、妻の強さを見せて貫禄。
五来は辛抱強く京子に付き合うが、ついに別居を決意する。京子と一緒にいる間、彼はひとつもきちんとした作品を書けなかったのだ。これはアーサー・ミラーの場合も似たようなものだったようだ。


肉体が売り物で、演技賞などとは無縁の女優と世間に思われていると考える京子は、私生活の不運なども重なって、以前から睡眠薬を常用していた。
映画は、ある賞の主演女優賞を取ったという連絡のあった夜、睡眠薬の飲みすぎで亡くなった京子が発見されて終わる。彼女は自分が受賞したというニュースを、ついに聞くことはなかった。(この受賞のことは実際のマリリンの場合とは違い、創作だ。)
ベッドで、電話の受話器を握っている姿は、マリリンの亡くなった状態もそうだった、といわれている。

京子が亡くなっている場面では、マリリンを想って、じわりと泣けた。

〔2004年4月10日(土) ラピュタ阿佐ヶ谷〕


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