コールド マウンテン

COLD MOUNTAIN
監督・脚色 アンソニー・ミンゲラ
出演 ジュード・ロウ  ニコール・キッドマン  レニー・ゼルウィガー  キャシー・ベイカー  ナタリー・ポートマン  ブレンダン・グリーソン  フィリップ・シーモア・ホフマン  アイリーン・アトキンス  ジョバンニ・リビシ  レイ・ウォルストン  チャーリー・ハナム  ドナルド・サザーランド  ジャック・ホワイト  イーサン・サプリー  ジェナ・マローン  ジェームズ・ギャモン
撮影 ジョン・シール
編集 ウォルター・マーチ
美術 ダンテ・フェレッティ
音楽 ガブリエル・ヤーレ
原作 チャールズ・フレイジャー
2003年 アメリカ作品 155分
ナショナル・ボード・オブ・レビュー…作品トップ10第7位・脚色賞
ダラス・フォートワース映画批評家協会賞…作品トップ10第2位・助演女優賞(レニー・ゼルウィガー、助演女優賞受賞者は以下同)
サンディエゴ映画批評家協会賞…助演女優賞
サウスイースタン映画批評家協会賞…作品トップ10第4位・助演女優賞
全米俳優組合賞…助演女優賞
ブロードキャスト映画批評家協会賞…助演女優賞
ゴールデン・グローブ賞…助演女優賞
英国アカデミー賞…助演女優・作曲(ガブリエル・ヤーレ、Tボーン・バーネット)賞
アカデミー賞…助演女優賞
評価☆☆☆★

シンプルで純粋な恋情を軸に、反戦の物語の中、厳しい生と死に彩られた人間の生きざまを描いた。

思い起こしてみると、いろいろな生と死を、生々しく見せていた、という印象がある。
とても真面目な人間ドラマだ。
映画はどのあたりまで原作に忠実なのか分からないが、原作は全米図書賞を取っている。

インマン(ジュード・ロウ)が、必死になってエイダ(ニコール・キッドマン)のもとに帰ろうとすることも含めて、物語の主人公2人が取っていった行動の結果は、あとから考えてみれば、連綿と続く人類の歴史を担うものではないか。まるで、そこに絶対の存在、(もしもいるのならば)神の意志とでもいうべきものがあって、すべてはそれに導かれていたかのようにも思えた。

インマンが出会う人々も、苛酷な生を生きている。生と死のぎりぎりの狭間(はざま)にいる。
神父は姦淫の罪を犯し逃亡者となる。裏切りの罪を犯す者もいる。
女性にとっては、いつ兵隊に襲われて乱暴されるかも分からない不安な日々が続く。

意図的に示される、動物の死。
鶏の首を締める。
山羊の喉を切る。
それは、人間が生きるため。他の生き物の死によって、人間が生を得る。これも、生きる、ということ。
死があってこその生。
生と死は密接に絡み合っている。世界は生と死で出来ている。

舟の女(ジェナ・マローン)や、農夫の家の女が、生々しい性の匂いを発散するのも、彼女たちが戦時下の異常な状況の中で、生命力を輝かせている描写であり、いやらしいということとは違う。
普通の恋愛ドラマには似つかわしくないような、農夫の家の女の、あからさまな媚態は、私には、「生の力」を感じさせるものなのだった。

アメリカ南北戦争で、激しい戦いとして有名なピーターズバーグの戦いが、映画の冒頭に描かれる。
この場面での残酷なまでの殺し合いや、戦いの後の悲惨な光景も、「死」を真正面から捉えてこそ「生」が際立っていく効果をもつように思う。
アンソニー・ミンゲラ監督は、戦場の悲惨さの描写について、「影武者」「乱」など、黒澤明監督の映画を観て学んだという。

生と死は、すなわち「人生」を描いているともいえるが、物語の、もうひとつの主張は「反戦」だと思える。
この映画で、理不尽な死を生んでいるのは戦争が原因だ。
戦争が、多くの愛を引き裂き、多くの人生を狂わせて破滅させる。
ルビー(レニー・ゼルウィガー)は、男たちは自分で戦争という雨を降らせておきながら、その大雨が降ってくると慌てるのよ、というような名ゼリフを吐く。
そう、男というものは、大馬鹿者なのだ。いつの時代も、平和を作っていく中心になるのは女性だ。人間で大切にすべきなのは、いつでも女性のほうなのだ。

映画全体を見ると、脇役陣のほうが、主役たちよりも印象的に思えるところも多い。少しの場面しか出てこないから、かえって印象的ということもあるのかもしれない。
とくに、わが恋人のナタリー(・ポートマン)は、印象的だった。おいしい役どころなのは確かだが、うまくこなしている。
いいぞ、ナタリー!
役柄を考えれば、もう少しベテランの女優をもってきてもいいのに、若いナタリーが登場してくるのは意外性もあり、新鮮味が出た。映画の、いいアクセントになっている。
彼女は、夫が戦死して、赤ん坊と2人で暮らしている女性の役。
インマンが彼女の家に一夜の宿を借りるのだが、そこで起きる出来事は、戦争の一方的な被害者である「戦争未亡人」の哀しい生活の典型を凝縮したようなものだ。
彼女の挿話の締めくくりは、なんともやるせない。
すべては戦争の罪、というしかない。

観終わった後も印象に残る脇役は他にも多い。
ヴィージー神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)もいいし、エイダの隣人役サリー(キャシー・ベイカー)、ルビーの父親スタブロッド(ブレンダン・グリーソン)、インマンを助ける、おばあちゃんのマディ(アイリーン・アトキンス)など。
脇を固める俳優が、味があって、いい。

では、主役はどうかといえば…なにしろニコール・キッドマンである。彼女の主演となれば、まず、観ないわけにはいかないのが現在の私だ。
しかも、今回、彼女の役名は、エイダ・モンローだ!
…それがどうした、といえばそれまでだが、とにかく、美女ニコールがモンローなのである!…
脇役がよかっただけに、主役として突出した印象は受けなかったが、堂々と主役を張ることができる大女優として、さらに安定してきたように思える。

ジュード・ロウは、よかった。愛する人のもとへと、長い道のりを、ただただ、歩いて戻ろうとする男。何が起ころうと、どんな運命が待っていようと、自分ができることは、それをやりとおしていくことだけ。
その一途さに好感をもった。
重傷を負っているときに、恋人の手紙の「帰ってきて」という言葉を聞かせてもらったときの反応は感動的だった。

一目惚れ、そして、ただ一度のキス。そのあと、戦争によって強制的に離れ離れになる2人。だからこそ、恋は山よりも高く、川よりも深くなる。生きる希望になる。
そのことは、心から信じられる。

ジュード・ロウの役には、当初はトム・クルーズがキャスティングされていたという。が、ギャラの額が折り合わずにトム君は降板したらしい。結果的にはトム君よりもジュード君のほうで、よかったと思う。

お嬢さまキャラのニコールを助ける、生活力にあふれた娘ルビーの役がレニー・ゼルウィガー。彼女はいろいろなところで助演女優賞を獲りまくった。
ただ、私には、まず、発音のしかたが、わざとらしすぎる「いなかっぺ娘」風に聞こえて、役を作りすぎに思えた
エイダの生活を支え、後には、お互いに影響を与え合っていく重要な役ではあるが、それほど素晴らしいとは思わなかった。
アカデミー賞に関して言えば、これまでのノミネート実績を考慮して、今回はそろそろ賞をあげてもいいんじゃないかな、という意味合いも含まれていたのではないかと思ったが、他の賞もぞろぞろと受賞しているのだから、多くの観客は、やはり何か輝くものを彼女の演技に認めているわけなのだろうか。

もうひとつ、忘れたくないのが、エンディングに流れる曲のひとつをスティングが作っていること。
「ユー・ウィル・ビー・マイ・エイン・トゥルー・ラブ」という、ブルーグラス(ハイトーンのリードボーカルにコーラスが加わる、カントリー風なアコースティック系サウンド、という感じの音楽らしい。アメリカの民謡ともいえそう。ルビーの父親が弾いていたフィドル(バイオリン)も演奏に使われることがある)の曲で、歌うのは、ブルーグラス歌手として有名なアリソン・クラウス。スティングはコーラスもつけている。
アカデミー歌曲賞にノミネートされたので、アカデミー賞授賞式でパフォーマンスが披露された。(惜しくも受賞は逃したが。)
気になる方は、エンドクレジットになっても席を立たずに、聴き逃がさないようにご注意を。
民放テレビで放送するときには、たぶん、エンドクレジットなどカットされる運命だから、スティングの曲も聴くことはできないのだろう。

〔2004年5月1日(土) ワーナー・マイカル・シネマズ 大井〕


映画感想/書くのは私だ へ        トップページへ