21グラム

21GRAMS
監督 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
出演 ショーン・ペン  ベニチオ・デル・トロ  ナオミ・ワッツ  シャルロット・ゲンズブール  メリッサ・レオ  クレア・デュバル  ダニー・ヒューストン
脚本 ギジェルモ・アリエガ
撮影 ロドリゴ・プリエト  フォルトゥナート・プロコッピオ
音楽 グスタボ・サンタオラヤ
2003年 アメリカ作品 124分
ヴェネチア国際映画祭…主演男優賞(ショーン・ペン、主演男優賞受賞者は以下同じ)、観客賞男優賞(ベニチオ・デル・トロ)・女優賞(ナオミ・ワッツ)、ウエラ賞(ナオミ・ワッツ)
ナショナル・ボード・オブ・レビュー…作品トップ10第4位・主演男優賞(受賞対象作品は「ミスティック・リバー」と「21グラム」)
サンディエゴ映画批評家協会賞…主演女優賞(ナオミ・ワッツ、主演女優賞受賞者は以下同じ)
サウスイースタン映画批評家協会賞…助演女優賞
フロリダ映画批評家協会賞…主演男優・主演女優賞
オンライン批評家協会賞…主演女優賞
ロサンゼルス映画批評家協会賞…主演女優賞
評価☆☆☆☆

重量級のパワーと、ざらついた緊張感が漲(みなぎ)る。

開巻。情事の後のような、けだるい雰囲気のナオミ・ワッツとショーン・ペン。
だが、2人の間は少し離れている。
さて、どんな話がつながっていくのだろう、と思っていると、まったく別の場面になる。
かと思うと、画面は、また別の場面に飛ぶ
その繰り返し。
ショーン・ペン、ベニチオ・デル・トロ(ベニシオというのが正しいという説もあるが、現在一般に多く使われている表記をとることにする)、ナオミ・ワッツの主役3人とその家族関係以外に、話はそれないけれども、いったいこの状況は何がどうなって起きたのだろう、と考えてしまう場面も多い。

物語は時間の経過するとおりに語られているのではなく、バラバラに、ちりばめられている。
実際は後に起きている出来事の一瞬間が、映画の最初のほうに来ていたりするのだ。
はじめは、なぜこんなややこしいことをするのか、何の意味があるのか、と思った。
しかし、観ているうちに思いついた。
人間の記憶なんていうものは、過去のある一瞬間一瞬間を、脈絡なく、ふっと脳裡に思い浮かべるものではないか。
だとすれば、この映画は、そうした記憶を積み重ねている状態ともいえる。

(ただし、ここでは1人ではなく、複数の人間の記憶の積み重ねになる。)

時系列がバラバラになって構成されているから、まるでパズルのごとくであり、観ているほうも必死でついていかないと、ワケが分からなくなりそうだ。
動かしがたい運命とも言える事実の断片の重さを印象づけるためにも、観客に映画に集中させるためにも、この手法は効果的なのではないだろうか。(ついていけなくなってしまった観客については、しかたがないとするしかなくなる、というのは問題はあると思うが。)
それに、だんだんとパズルが解けていく面白さもある。
あ、あの場面って、こういうことだったんだ!と分かる。知的だ。
時間の流れのとおりに物語を構成してもかまわないだろうが、場面の断片の集合体にしたことで、この映画ならではの特徴が生まれた
場面を細切れにして並べ替え、演技者の熱演が加わり、話の先が見えない緊張感が増幅された。

この監督の作品は、これまでに「アモーレス・ペロス」を観ているが、ざらついた画面の感じは似たようなものだったかなあ、と思った。メキシコ人監督らしいというのか、メキシコの乾いた砂漠の風土のイメージに似ていないこともないような。手持ちカメラの臨場感もよく出ている。

主役3人の演技は見事なものだが、今回、ナオミ・ワッツ嬢に関しては少し引っ掛かる。被害者関係の人間を演じるので、悲しみ嘆く役なのだが、演じかたが類型的になった部分もあったように思うのだ。
声の震わせかたが「マルホランド・ドライブ」で観たような感じだなあと思ったところも。
厳しい見かただとは思うが、ショーン・ペンとベニチオ・デル・トロの間に入ると、さすがに少々、形勢不利なのかな。
彼女、ほっぺたというか、口の両脇というか、そこのところが、何やら、ぷっくりとしているのが少し気になった。むくみ気味なのか、もしや、お年のせい? よく分からないけど、彼女のファンなだけに要らぬ心配をしてしまう、けなげな私であった。

ショーン・ペンは心臓を病んだ男。脳死後の心臓提供者が現われる幸運を待っている。
さすがは演技派、病気の演技も上手いものだ。隠れてタバコを吸う場面などは印象的。
そういえば、最後のほうで、男に向かって拳銃を突きつけるところは、まるで「ミスティック・リバー」を再現したかのようで、偶然だろうが、似てるなあと思ってしまった。

役としては、いちばん得なのがベニチオ・デル・トロ。
心ならずも加害者になってしまった、という役なので、うまくやれば(という言い方は悪いけれども)、観客の同情をひくことができる。
そして、彼はそれに成功している。
お得な役だとはいえ、下手な役者だったら当然、そういう旨みを生かすことはできないだろう。
抑制された演技は、リアリティがある。
彼は、刑務所から出て、半ば無理やりに神を信仰することで、立ち直ろうとしている。
付け焼刃に近い信仰を若者に押し付けようとしたり、暴力を振るうなと言って、自分の子どもをたたいたりする。どこか半端で自分の中に矛盾のある生活を送っている。
そんな彼が、ある事件を起こしたことから、このうえない苦しみが始まるのだ。
――俺は神を信じたのに、この仕打ちが神の意志なのか。

ショーン・ペンの彼女を演じるのが、シャルロット・ゲンズブール。父親がミュージシャンであり監督のセルジュ・ゲンズブール、母親が女優のジェーン・バーキンという、いい血統である。
映画を観始めたときは、彼女が出ていることをすっかり記憶の彼方に忘れていた(すいません。)が、主演3人の火花散る丁丁発止の中で、なかなか素晴らしいアクセントになっていた。

ここに描かれた悲劇は、誰にでも起こりうる。好むと好まざるにかかわらず。
(私の場合は、いまの状態ならば、加害者の方になる可能性はないが。)
出遭ってしまったら、人はその悲劇と、いやでも直面し、対決しなければならない。
また、将来、何が起きるか分からないのなら、できるだけ、今を悔いのないように生きていくようにしたい。なるべくなら、そうありたい。そう心がけるのは、なかなか難しいことだけれど。
そんなことも思わされてしまう、重い作品だった。

〔2004年6月5日(土) 丸の内ピカデリー1〕


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