麗しのノーマ・ジーン


これは、はるか昔(約18年前)、ごく内輪で作られた、ある雑文集のために書いた文章に、多少の手直しを加えた駄文です。
ガキのころの稚拙な文章であり(今も変わらないか?)、また、マリリンを紹介するための文章なので、すでに彼女のことをご存知のかたには、たいして面白くはないかと思いますが、なにとぞ寛容な心で、お目汚しのほどを。

僕は映画が好きだ。中2の秋NHKで『バス停留所』を放映した(1973年11月24日、土曜日)。もちろんNHKは字幕スーパーである。情感あふれる彼女の演技が心に残った。そしてその後、『紳士は金髪がお好き』によって、完全に彼女のファンになった。今も永遠の恋人として、そして史上最高の女優として、心に残るその人の名はノーマ・ジーン・モーテンソン、女優としての名をマリリン・モンローという。

ノーマ・ジーンは1926年6月1日ロサンゼルスで父なし子として生まれる。母親は精神病院に入り、彼女は孤児となる。彼女の幼年時代のエピソードには、枕をかぶせられて殺されそうになったとか、養父に犯されたとか、いろいろな話があるが、多くは作り事であろう。

彼女は16歳で結婚18歳頃からモデルとなり、やがてRKO映画社長のハワード・ヒューズの目にとまる。スクリーン・テスト。『嵐の園』、“Dangerous Years”、“Ladies of the Chorus”、“Love Happy”、『彼女は二挺拳銃』に端役で出演する。ジョニー・ハイドというマネージャーが彼女につき、彼の尽力によって『アスファルト・ジャングル』(’50)、そして作品賞など6つのアカデミーを得た『イヴの総て』(’50)に出演する。有名なヌード・カレンダーを撮ったのもこの頃である。彼女は「お金が必要だったのよ」と答え、何も着ていなかったのではなく「ラジオのムード音楽を着ていた」ということである。ギャラは50ドル。契約を結んだ20世紀フォックスは、彼女の使い方を知らなかった。

’50〜’52年の作品は、“The Fireball”、“Right Cross”、“Hometown Story”、“As Young As You Feel”、“Love Nest”、“Let’s Make It Legal”、『夜の疼き』、“We’re not Married”、『ノックは無用』、“Monkey Business”、『人生模様』とあるが、ほとんどたいした役はなかった。映画とヌード・カレンダーの効力による人気に、Sex Symbol としての魅力に気づいたフォックスは、彼女を『ナイアガラ』に出演させる。

『ナイアガラ』(’52 ヘンリー・ハサウェイ監督)は、浮気妻の役で、最後はジョセフ・コットンの夫に首を絞められてしまう。モンロー・ウォークなる腰振り歩きは、当時の日本の映画館では、ただ失笑を買うだけだったという。観客たちのほうが気恥ずかしかったのだろう。彼女をSex Symbol として売り出そうという魂胆が見え見えで、映画としてはたいしたことはない。

『紳士は金髪(ブロンド)がお好き』(’53)は、『リオ・ブラボー』など豪快西部劇でおなじみの巨匠ハワード・ホークスの監督。しかし彼はコメディも見事にこなす。最高のミュージカル・コメディが誕生した。ブルネット・グラマーの大御所ジェーン・ラッセルと堂々と渡り合い、4曲も歌った。『ナイアガラ』の悪女とは反対に、可愛い女に仕立て上げられた。

『百万長者と結婚する方法』(’53)も、頭の弱い可愛い女系統。ベティ・グレイブル、ローレン・バコールと三人娘を組んだ。この頃、有名な野球選手だったジョー・ディマジオと結婚

『帰らざる河』(’54)は、彼女が歌った主題曲がとても有名になった。しかし彼女はその他にも3曲歌っている。特に“Down In The Meadow”というギター伴奏による素朴な童謡みたいな歌を、僕は気にいっている。映画は、なにか寂しい感じもあって、大好きとは言えなかった。

『ショウほど素敵な商売はない』(’54)でも純情で可愛い女で、周囲の評判はよかった。ミュージカルで、4曲ほど歌った。

そして、いよいよ『七年目の浮気』(’55)となる。名監督ビリー・ワイルダーとの出会いは、彼女にとって幸運だった。ブロードウェイでも大当たりをとったコメディで、彼女は「マリリン・モンローそっくりの娘」として出てくる。これまた単純で気のいい女で、まるで「となりのお姉さん」みたいに親しみやすいのだ。僕はこれの字幕スーパー版を、新宿アートビレッジで観た。彼女のほんわかとした柔らかい魅力がフルに発揮され、代表作のひとつだと思う。ピアノで歌う“Chopstick”は最高。ラフマニノフのピアノ・コンチェルトも印象的。この頃3回目の結婚。相手は作家のアーサー・ミラー

自分のプロダクションをつくった彼女は、マーロン・ブランド、ジェームス・ディーンなども在籍したアクターズ・スタジオで演技を勉強し、『草原の輝き』『ピクニック』などを書いたウィリアム・インジの舞台劇『バス停留所』(’56)に挑戦した。安酒場の歌手に扮し、《わざと下手くそに》歌った“Old Black Magic”は秀逸だった。この作品で彼女は演技の糸口をつかんだといえるだろう。

『王子と踊子』(’57)では、彼女はロンドンに乗りこみ、ローレンス・オリビエを相手に演技で対抗した。オリビエは彼女のことを、さんざんけなしたそうだが、女をけなすような男は最低である。たとえ立派な役者であっても、ろくなものじゃない。

流産などで2年のブランクの後、『お熱いのがお好き』(’59)に出演。ふたたびビリー・ワイルダー監督。トニー・カーティス、ジャック・レモンの女装もおかしく、『七年目の浮気』以上のコメディの傑作となった。“I Wanna Be Loved By You”という歌はあまりにも有名。

『恋をしましょう』(’60)は、監督に『マイ・フェア・レディ』などのジョージ・キューカーを迎え、イブ・モンタンと共演した。モンタンと恋の噂が流れ、モンタン夫人のシモーヌ・シニョレから冷ややかな毒舌を浴びせられたとか。モンタンは彼女のセックスはよかった、とうそぶいたそうだ。ここでも4曲ほど歌っている。ビング・クロスビー、ジーン・ケリーも、ほんのちょっと出演している。

そして遺作となった『荒馬と女』(’61)は、ジョン・ヒューストン監督、出演はクラーク・ゲーブルモンゴメリー・クリフトイーライ・ウォラック(『荒野の七人』の山賊の親分)という、そうそうたる顔ぶれ。夫アーサー・ミラーが脚本を書いた。あこがれのゲーブルと共演した彼女は精一杯がんばった。すでに、この頃には、数年間続いた睡眠薬とアルコールによって、彼女の体は、ぼろぼろだった。ゲーブルは撮影終了後まもなく、心臓麻痺で急死した。体調と精神の不安定で撮影を手間取らせたマリリンは、まるでゲーブルを殺した犯人のようにみなされ、憎まれてしまった。

そして彼女自身も“Something’s Got To Give”の撮影中、1962年8月5日の真夜中、ロサンゼルスのブレントウッドの自宅で亡くなった。その死因については、いまにいたるまで、さまざまに取り沙汰されているが、彼女が死んだという事実は変えることはできない。彼女はハリウッド、そして観客の期待に応えようと努力し、自分を変え、虚像のマリリン・モンローを創り出していった。その虚像マリリン・モンローと実像ノーマ・ジーンの差に耐え切れなくなったとき、彼女は消えた。彼女は永遠の若さのまま、スクリーンに生きる。

女優にあこがれ、スターをめざした彼女。その地位を得たあとも、母のように精神を病むのではないかという恐れは彼女の心を去ることはなく、いつも不安があった。そして、彼女にとって演技とは、いつしか自分の内面をさらけ出し、削り取るかのようなものに感じられ、その恐ろしさゆえに、自信のなさとなり、アルコールや薬への逃げ道を選ぶようになっていったのではないだろうか。


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