+++ 『SHIROH』紀行 1 +++
 
■原城址(1)■


 
長崎からレンタカーで約2時間ほどで、最初の目的地、原城址に到着しました。
島原半島の突端、南有馬町にあるこの原城は、三方を海に囲まれていて、周囲にはのどかな田園風景が広がっています。鉄道を利用すると、諫早から島原鉄道で有明海沿いにぐるりと回って約2時間半かかるとか。実質的には鉄道の旅はかなり難しい場所といえそうです。
島原方面から国道251線沿いに車を走らせていると、原城への案内板が出てくるのでそこを左折。国道の左側から海沿いまでのエリアがすべて原城址になるようです。細い小道を本丸方面に進んでいくのですが、道の右手が二の丸出丸、左手に三の丸があったようです。さらに道を右手に折れて進むと、左に二の丸。その先にやや広いスペースがあって、ここが駐車場代わりとなっているようです。この場所は本丸のすぐ下になります。本丸以外は、今はほとんどが畑となっています。
ここに、建てられているのがホネカミ地蔵。1766年に、有馬村願心寺注譽上人が原城内に野ざらしのまま放置されていた骨を敵味方の区別無く拾い集めて建てられた慰霊碑と言われています。ホネカミとは”骨をかみしめる”の意味で、即ち、自分自身のものにする、さらに、人々を救済する、と解釈されています。

【ホネカミ地蔵】
本丸の下あたりにある慰霊碑
乱の約130年後である1766年に建てられたもの。国文学者の八波則吉の詩が添えられています。

【原城本丸址】
向こう正面に見えるのが本丸址
(ホネカミ地蔵のあたりから本丸を見たところ)

【本丸へ続く道】
この階段の上に池尻口があります。

【池尻口門跡】
虎口と呼ばれる本丸への出入り口のひとつ
左の写真の階段の上がここ
ホネカミ地蔵に手を合わせてから、ゆるい上り坂を歩いて本丸へ向かいます。歩いて数分の距離でしょうか。原城址公園として整備されている本丸址は、たくさんの桜の木が植えられ、ベンチなども置かれていて、今は人々の憩いの場所となっているようでした。あと1週間早かったら、満開の桜の花が見られたかも知れません。
池尻口から本丸址へ入ってすぐ目の前に、天草四郎の墓碑と、その向こうに白い十字架が見えます。

【原城跡の石碑】
本丸址にある石碑
昭和32年5月25日建立。乱後320年の記念碑として、当時の長崎県知事、西岡竹次郎さんにより建てられた記念碑。碑文には、”信仰に生き抜いた殉難者のみたまに対して限りない敬意と哀悼の年を禁じ得ない…”とあります。材質は天草石。

【原城本丸址にて】
十字架と天草四郎の墓碑
左の桜の木の右下に天草四郎の墓碑があります。

【天草四郎の墓碑】
二段に積まれた大きな石の上に墓碑が建てられています。お花が絶えません。
右に墓碑の説明文を記した案内板があります。

【天草四郎の墓碑】
石の材質があまりよくないため、風化による劣化がひどく、碑に刻まれた文字が読めなくなるのも時間の問題だとか。
この天草四郎の墓碑は実際の四郎のお墓ではなく、西有馬町にある民家の石垣から発見されたものを、ここにあるのがふさわしいという理由で、原城に移されたものだそうです。墓碑に刻まれている碑文は以下の通りです。
 「○保○年
  天草四郎時貞○
  ○二月廿八日母」
墓碑には母とありますが、乱の直後に亡くなっているため、実際に墓碑を建てたのは四郎の母ではないと言われています。

【四郎像】
”信念に燃える四郎像”
高純度アルミ製。
昭和48年11月建立。北村西望さんの作によるもの

【四郎像】
”信念に燃える四郎像”
本丸址へ入って左側に天草四郎像があります。この像も大きな岩の上に据えられています。台座には”信念に燃える四郎像”とあります。北村西望さんの作によるもので、今回は時間の都合で素通りしてしまいましたが、島原城(かっちゃんのお城)にある四郎像もこの方の作とのこと。そういえば顔が同じで、どちらも眼を閉じています。

【本丸址に植えられた桜の木々】
樹齢20年くらい?

【本丸址にて】
発掘調査中のため、あちこちに小さな印がつけられています(見づらくてすみません)。何かが発見された場所なのかな?

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