+++ 原城 +++
 

  原城は周囲4kmの三方を有明海に囲まれている難攻不落の天然の要塞で、本丸、二の丸、三の丸、天草丸とそれぞれの出丸からなっていました。有明海を背にして本丸の右手に天草丸、左手に二の丸、三の丸と続いています。天草丸という名は、主に天草の各村々からの一揆勢約2000人がここに集結していたことから、こう名付けられたようです。本陣となる本丸には総大将である天草四郎時貞以下4000人が、二の丸には加津佐、口之津、南有馬勢など5700人、三の丸には北有馬、有家、堂崎、布津、大矢野勢など3500人がいたとされています。原城陥落時の総攻撃のきっかけとなったは二の丸出丸で、ここは幕府連合軍から見て正面の位置、いわば最前線にあたります。
  原城は1496年(明応5年)に、当時26万石ともいわれた領主・有馬貴純によって築かれたと云われています。別名「日暮城」とも呼ばれていた美しいお城で、ここから有明海に沈む夕陽の美しさは想像に難くありません。有馬氏はその後、隆盛を極めましたが、1612年(慶長17年)にキリシタン大名である城主・有馬晴信が岡本大八事件に連座した罪で家康により配流・切腹となり、その子の直純が代わって有馬の地を治めましたが、1614年(慶長19年)に日向(現在の宮崎県)へ配封となり、島原領は大村・松浦・鍋島3藩の委任統治となりました。1616年(元和2年)になると大和五条より松倉重政が入封しましたが、1624年(寛永元年)に一国一城の令によって島原城(森岳城)を築城したため、日之江・原城はともに廃城となりました(松倉重政は1630年に急死し、その子・勝家が島原城主となっています)。
  その13年後の1637年(寛永14年)12月1日、この廃城となっていた原城に一揆軍の籠城が始まりました。幕府軍の3度の総攻撃に耐えましたが、翌1637年(寛永15年)2月27日、幕府軍の総攻撃により、2月28日に遂に落城。場内にいたと言われている3万7千人の一揆軍は女子供に至るまで、一人残らず殺戮の対象となりました。またこの時、城は徹底的に破壊しつくされたと云われており、建物は現存していません。
  乱後、総大将の天草四郎時貞を含む斬首獄門となった一揆軍約1万人の首は原城の表玄関に当たる大手門前に晒されました。
  原城内には天草四郎時貞のお墓がありますが、実際に四郎がここに葬られているわけではありません。この碑は西有馬町西の浦の民家と海岸線の境界に築かれた通路から発見されたもので、西有馬の人々に祀られていたもののようですが、ここにあるのがふさわしいという理由で、原城に移されたのだそうです。墓碑には「○保○年 天草四郎時貞○ ○二月廿八日母」と刻まれていますが、四郎の母は、乱の直後に処刑されているため、四郎の死を悼む人々の手により、母の身になって造られたものではないかと云われています。
  幕府は原城内に散らばる約1万の骨を集めて原城・富岡城(千人塚)・長崎の3箇所に分け、乱の10年後には、乱後、天領となった天草の初代代官・鈴木重成による追善供養が行われ、それぞれ供養塔が建てられたそうです。原城の供養塔は天草丸の先に位置する八幡神社近くに建てられている供養碑がこれにあたります。
  また、乱から約130年を経た1766年(明和3年)、有馬村願心寺注譽上人と各村の庄屋らが原城内に野ざらしのまま放置されていた骨を敵味方の区別無く拾い集めて供養を行い、ホネカミ地蔵という地蔵尊塔を建てました。ホネカミとは”骨をかみしめる”という意味で、そのことから、自分自身のものにする、さらに、人々を済度(救済)する、と解釈されています。本丸の枡形虎口跡の下あたりに建てられています。
  三の丸付近にある板倉重昌の慰霊碑は1798年(寛政10年)に建立されたもので、この慰霊碑は乱後43年目の1681年(延保9年)に重昌の孫にあたる重道により建立が計画されたものの許可されずにそのまま放置されていたものを、子孫の板倉八右衛門勝彪が建立したものとのことです。
  昭和13年5月30日になって、原城は国の史跡文化財に指定されました。
  1990年代に入って、ようやく本格的な発掘調査が始まりました。当初は徹底的に破壊し尽くされたとされている原城から、目新しいものが見つかるとはあまり期待されていなかったようですが、実際に発掘調査が始まると、十字架、ロザリオ、メダイ(キリストやマリア様などを彫刻したメダルのようなもの)、ギヤマン、壺などの陶器類、つぶれた銃弾、瓦、人骨など実に様々な遺物が出土しています。この調査により、鬼瓦なども出土したことから、これまで一揆軍が籠城した当時の原城は板塀に藁葺き程度の簡素なものと推測されていたのが、瓦を持つ建物だったということが判明したそうです。今もなお、発掘調査は続けられています。