+++ 山田右衛門作と寿庵 +++
 

  山田右衛門作は島原の口之津にて誕生。元原城主・有馬直純の家臣だったと云われています。天草・島原の乱の唯一の生き残りとして伝えられる山田右衛門作は一揆軍の副大将でしたが、籠城中に幕府軍と内通し、矢文によって一揆軍の内情を逐一、幕府軍へ知らせていたことが発覚、その後は原城内の牢へ監禁されていました。矢文の内容は「原城内には米・芋・味噌などを持ち込んでいる。槍・刀などは細工職人が毎日作っている。鉄砲も作っているが、火薬は3月中までになくなると思われる。」などというものでした。
  1638年(寛永15年)2月27日の幕府軍の総攻撃の際、牢内にいた右衛門作は幕府軍によってただ一人助けられ、その後、厳しい取り調べを受けています。その際の右衛門作の口述書・口書は信憑性の高いものと云われ、一揆軍や総大将・天草四郎の様子を今に伝える貴重な資料となっています。その口述書の中で、天草四郎については「四郎は、才知にかけて並ぶものなし、儒学や諸術を身に付けたデウスの生まれ変わりである」と語っています。
  右衛門作はまた、南蛮絵師(洋画家)でもあり、『天草四郎陣中旗』は彼の手によるもの、と云われています。この陣中旗は総攻撃の際、先陣を切った鍋島藩が戦利品として持ち帰ったため、今に伝えられています(本渡市立天草切支丹館所蔵)。世界三大聖旗(軍旗)のひとつと云われており、昭和39年に国の重要文化財に指定されています。

  山田右衛門作は『SHIROH』の作中には登場せず、すでに亡くなったことになっており、代わりに彼の娘という設定で山田寿庵なる人物が登場します。もちろんこれは創作で、寿庵は史実として伝わる山田右衛門作からインスパイアされた登場人物と言えそうです。ただし一揆軍を裏切った人物ではなく、益田四郎時貞によって唯一生かされた原城の戦いの生き証人となる重要な人物として描かれています。この”寿庵”という名も創作かというと、そうとは思えない部分があります。乱の起こる直前の1637年(寛永14年)10月15日、”加須佐寿庵”名で天草・島原に善人天草四郎を総大将にキリシタン一揆への参加を促す檄が飛ばされています。この加須佐寿庵は仮名であると推測されていますが、誰を指すのかはわかっていません。