+++ 松平伊豆守信綱 +++
 

  松平伊豆守信綱は武蔵忍(むさしおし)城主、三万石の大名で、父は大河内久綱、叔父の松平正綱の養子となり、将軍・徳川家光・家綱の二代に渡って老中を務めました。才知に長け、”知恵伊豆”と異名を取りました。
  1637年(寛永14年)10月に起こった天草・島原の乱では、鎮圧のために一揆討伐の上使として先に派遣された板倉重昌に続き、11月27日、幕府は第二次征伐使として松平伊豆守信綱を任命。嫡子の甲斐守輝綱ら1500名を率いて12月3日に江戸を発ち、12月29日に豊前小倉に到着しました。当初幕府は板倉重昌らにより一揆は鎮圧されるものと考えていたため、信綱の派遣は「彼跡以下御仕置のため」であったのですが、小倉に到着した信綱は事態が容易ならざる状況であることを知り、細川藩の家老に対し、天草へ出していた兵を島原に移すよう指示しています。これより、信綱は幕府連合軍の指揮を執ることになりました。そのわずか数日後に板倉重昌が討死。1月4日に島原へ到着した信綱は諸将を集めて軍議を開いた結果、兵糧責め(持久戦)に持ち込む方針を決定しました。この間も、オランダ船の力を借りて海から砲撃したり、地下道を掘ったりしましたが、いずれも失敗。また幕府軍と一揆軍との間で頻繁に矢文のやりとりが行われたのもこの頃で、幕府側は投稿勧告を、一揆軍は旗揚げの趣旨を申し送ったようです。信綱は生け捕りにされた四郎の親族を使って降伏を勧める書状をしたためさせたり、幼子を使者に立てたりもしましたが、彼らの決意は固く、思ったような効果を上げることはできませんでした。
  こうした中、一揆軍の副大将である山田右衛門作の寝返りにより、一揆軍の原城内での様子は幕府軍側に筒抜けとなり、2月に入って食料も武器も尽きかけ兵糧責めが功を奏してきたと判断した信綱は2月28日に総攻撃をかけることを決定。実際には鍋島藩の抜け駆けにより1日早い27日に総攻撃が開始されました。翌28日には原城は落城。幕府連合軍は12万5800を超す大軍となっていました。この時、城内にいた3万7000とも云われる一揆軍は女子供を問わず、全員悉く、討ち取られました。ただの一揆であれば女子供まで殺すという厳しい処置は取らなかったのでしょうが、この乱をキリシタン一揆として位置づけ、キリシタン禁制の見せしめとする意味があったのと、有馬・小西浪人など旧豊臣方の家臣による一揆という一面を隠そうとした理由があったから、とも云われています。この乱を機に翌年、鎖国は完成しています。

  『SHIROH』の中では、柳生十兵衛、伊賀のくの一、お蜜、お紅姉妹を操って影で糸引く人物として描かれています。このあたりは史実には全く登場しません。天草・島原の乱の火付け役となったり、また討伐軍の総大将である板倉重昌を討ってしまうという大胆な演出も、目的の為にはあらゆる策を弄する”知恵伊豆”のキャラクターを印象づけるための脚色と思われるところです。