+++ 益田甚兵衛好次 +++
 

  1582年(天正10年)天草の大矢野で誕生(大矢野中越の浦1383番地と云われています)。本名は益田甚兵衛好次(洗礼名:ペイトロ)。妻(本名不詳,洗礼名:マルタ)との間に長男・四郎をはじめ福(洗礼名:レシイナ)、萬(洗礼名:マルイナ)の3人の子供を設けました。一説には他にも娘がいたという説もあります。
  戦国時代より益田家は大矢野城主に仕え、越の浦一帯の管理を任されていた土地の有力者でした。父も大矢野城主に仕えており、甚兵衛が小西行長に仕えた後も、父は小西家の家臣とはならず大矢野氏に仕えて、天草・島原の乱後まで生きていました。
  1596年(慶長元年)甚兵衛16歳の時、元服して宇土へ渡り、祐筆として宇土城主・小西行長に仕えました。商才に長け、特産品の交易などでたびたび長崎を訪れていたと言われています。関ヶ原の合戦(1600年)で敗れた後、家臣らは浪人、庄屋、農民などとなりました。甚兵衛は小西浪人になった後は、大矢野へ戻っており、四郎はこの頃誕生しました。甚兵衛40歳の時の子ということになります。甚兵衛はその後宇土へ戻ると江辺村に住み、その才を発揮して農業と交易と行い、たびたび大矢野や長崎を訪れていたようです。
  その後、島原・天草地方は未曾有の飢饉に襲われ、またキリシタン弾圧、厳しい年貢の取り立てなどにより、小西浪人たちはキリシタンや農民を巻き込んだ一揆を画策。幼い頃より、数々の奇蹟を起こし、天の御子とも云われていた甚兵衛の子、四郎を総大将とすることを決定しました。甚兵衛は一揆の首謀者のひとりとして評定衆(参謀)に名を連ねています。
  1637年(寛永14年)10月7日、大矢野本島の宮津に天草四郎の本拠地として礼拝堂(宮津教会)が設けられましたが、この時、甚兵衛は「お前は、今日からわしが子ではなか。天草島原の救世主なのじゃ」と語ったとされています。
  10月25日、島原にてキリシタン蜂起、呼応して10月29日には天草でも一揆が起こり、ここに天草・島原の乱が始まりました。四郎を総大将とした一揆軍は当初、優勢に進軍しましたが、上津浦、祇園橋での激戦、富岡城攻めの後、12月1日、廃城となっていた島原半島の突端にある原城に一揆軍が集結。結局、一揆軍は島原城も富岡城も落城させることはできず、籠城は一揆軍の分断を恐れての苦肉の策、と云われています。
  10月30日には、宇土に隠れ住んでいた家族(妻・マルタ、娘・福など)と、彼らを原城内へ迎えるべく使いに出した娘婿・渡辺小左衛門がともに捕らえられてしまいました。一揆の起きた5日後には家族が全て捕らえられたことになります。彼らは人質として籠城の際の交渉役に使われましたが、最初から”まるちり”を覚悟していた四郎勢は、家族の説得にも全く動じることがなかったといいます。落城後は全員、処刑されています。
  翌1638年(寛永15年)2月27日、幕府軍の総攻撃により、原城は2月28日に遂に落城。甚兵衛もこの時、討ち死にしています。享年56歳でした。

  『SHIROH』の中ではお笑い担当(?)の甚兵衛は、神の御子伝説を巷に流布し息子・四郎を一揆軍の総大将とすべく奔走する人物として描かれていますが、四郎自身に決起を促す、という部分が史実と異なる点で、実在の天草四郎は剣の使い手ではなく、一揆軍のシンボル的存在で、陣頭指揮を執って戦った事実はありません。また、娘・福とともに投獄されたのも創作と思われます。