+++ 松倉勝家 +++
 

  松倉長門守(ながとのかみ)勝家は肥前島原四万石の大名で、島原城を築城した父・松倉重政の急死により、1630年(寛永7年)11月、島原城主となりました。
  1613年(慶長18年)の幕府によるキリシタン禁教令により、キリシタンに対する弾圧は熾烈を極め、有馬氏に替わって島原を納めた松倉重政は徹底的な弾圧を行いました。キリシタンの多かったこの島原・天草の地での迫害は壮絶なものであったようです。その一方、島原藩では検地を実施し、最初の検地で表高四万石のところを十万石、二度目の検地で十三万石近い高とし、幕府へ偽りの申告を行いました(論功で利を得ようとしたため、と云われています)。さらに、島原城築城に伴い、領民には過酷な労役と重税が課せられました。納めないものに対しては蓑踊りや逆さ吊りなどの厳しい処罰で農民を責め立てました。このような圧政はその子である勝家にも引き継がれましたが、幕府により、手ぬるいとの指摘を受けた勝家は、キリシタンへの弾圧をさらに強化してゆきました。このような背景が天草・島原の乱を起こす下地となったと云われています。
  1637年(寛永14年)10月25日、松倉勝家の島原領内でキリシタンが蜂起し、天草・島原の乱が始まりました。このとき、領主・勝家は参勤交代で江戸にいたようです。11月9日にはこの一揆が幕府の知るところとなり、九州の諸大名には帰国が命じられました。11月24日には勝家も島原城に戻っています。島原城は一揆軍に責め立てられたものの落城は免れ、その後、原城へと籠城した一揆軍の討伐のため、12月5日には幕府の上使として板倉重昌が島原城に入りました。勝家は2500人の兵を引き連れ、重昌とともに原城に三度の総攻撃を仕掛けますがいずれも失敗。第二次討伐使として幕府より派遣された松平信綱の兵糧責めが功を奏し、翌1638年(寛永15年)2月28日、遂に原城は落城しました。
  天草・島原の乱は幕府連合軍側の勝利に終わったものの、乱後、松倉勝家は美作の森内記長継に預けられ、7月19日、その責を問われて死罪(斬首)という厳しい処分が取られ、また松倉家も改易(取り潰し)となっています。

  『SHIROH』の中では、板倉重昌こと、しげちゃんと大の仲良し、という設定になっており、圧政で領民を苦しめたとは思えないようなチャラチャラした人物として描かれていますが、このあたりは四郎勢との対比を色濃くするための演出と思われます。