+++ 渡辺小左衛門とその妻・福 +++
 

  渡辺小左衛門(洗礼名:ムラシニ)は1610年頃(慶長15年頃)大矢野にて誕生。大矢野の大庄屋であったといわれています。一揆軍には父・伝兵衛(洗礼名:サンチョ)、弟・左太郎(洗礼名:ミゲル)とともに加わっています。小左衛門の妻・福は一揆軍の総大将・天草四郎時貞の姉にあたり(四郎から見ると姉婿)、福との間に息子・小平(洗礼名:ポウロ)を設けていますが、もうひとり娘がいたとする説もあります(死亡時7歳)。
  妻の福(洗礼名:レシイナ)は1615年頃(慶長20年頃)大矢野にて誕生。父・益田甚兵衛好次(洗礼名:ペイトロ)と母(本名不詳,洗礼名:マルタ)との間に生まれました。3人兄弟の長女で、兄弟は弟・四郎(洗礼名:ジェロニモまたはフランシスコ)と妹・萬(洗礼名:マルイナ)の2人。一説には他にも妹がいたという説もあります。
  小左衛門は一揆軍の首謀者のひとりとして益田甚兵衛とともに四郎の擁立に奔走した共同謀議の中心人物とされ、四郎に「あなたはただ天草島原の民に神を説く善か人(天使)らしくしてござらっしゃればよか」と説いたと云われています。
  10月25日、島原にてキリシタン蜂起。折からの飢饉、重税に苦しんでいた既に棄教していた人々を次々とキリシタンに立ち還らせることに成功し、10月27日(あるいは28日)、小左衛門は、50人ばかりを召し連れて、栖本郡代石原太郎左衛門の陣屋に押し掛け、果敢にもキリシタンへの立ち返りを宣言し「キリシタン転宗の血判誓詞」の返還を要求したといわれています。
  12月1日、廃城となっていた島原半島の突端にある原城への籠城が始まり、それに先立つ10月29日、小左衛門は宇土に隠れ住んでいた妻および四郎の家族を原城内へ迎えるため使いに出たところを、10月30日、謀計により三角の郡浦(こうのうら)で捕らえられてしまいます。同夜、妻・福、四郎と福の母・マルタ、妹・萬も江辺で細川藩の役人に捕らえられています。一揆の発生から一週間も経たぬ間の出来事でした。小左衛門の捕縛により、細川藩はいち早く四郎の情報を得ることとなります。小左衛門と四郎の家族は人質として籠城の際の交渉役に使われ、原城との間にさかんに矢文が交わされました。年が明けると城中で一揆軍を指揮している家族へ降伏を促す書状をしたためさせられました。また幼い四郎の妹・萬や小左衛門の子(四郎の甥)・小平が城内への使者に立ちましたが、持ち帰ったものは勧告拒否の返書と土産の品々。城内には甚兵衛、四郎らとともに、小左衛門の父・伝兵衛、弟・左太郎などが籠城していました。彼らは最初から”まるちり”を覚悟していたため、家族の説得にも全く動じることがなかったようです。
  2月28日に原城は遂に落城。父・伝兵衛(享年53歳)、弟・左太郎(享年21歳)は討ち死。3月6日には捕らえられていた小左衛門、妻・福、四郎と福の母(享年50歳)が処刑されています。遡る3月3日(または4日)に子・小平(享年7歳)、福の妹・萬(享年7歳)も処刑されました。萬や小平が「天国へ行ける」と喜んで首を打たれる様を見て、役人は一様にその信仰の深さに驚いたといいます。四郎一族は幼子までほぼ例外なく、処刑されています。小左衛門、享年27歳(または28歳)、福は享年22〜23歳(24〜25歳とする説もあり)といわれています。

  小左衛門は『SHIROH』の中では四郎とともに大将探しに奔走する役どころですが、小左衛門が四郎を大将に、と考えていた様子は史実と一致します。ただ甚兵衛とともに一揆軍の首謀者であり、一揆の中心人物のひとりである点は、史実とは微妙に描写が異なるようです。『SHIROH』では妻・福とともに原城に籠城し討ち死にしていますが、実際には籠城以前に捕らえられており、原城落城後に処刑されています。