+++ 板倉重昌 +++
 

  板倉内膳正(ないぜんのかみ)重昌は京都所司代となった板倉勝重の三男で、三河深溝(ふこうず)一万二千石の大名であり、将軍・徳川家光の談判衆でした。
  1637年(寛永14年)11月9日、天草・島原の乱鎮圧のため、一揆討伐の上使として派遣されることが決定すると、11月25日には豊前小倉に到着し、熊本藩の家老に対し一揆鎮圧の為に天草に兵を出すことを命じました。12月5日、約800の兵を率いて島原城に入った重昌は、12月10日から島原松倉、佐賀鍋島藩の兵を含む二万数千の軍勢で原城を攻めましたが全く歯が立たず、12月20日の二回目の攻撃時にはさらに久留米藩有馬氏、柳川藩立花氏の加勢を得て四万数千の軍勢をもって臨みましたが、一揆軍の抵抗は予想以上に強く、またしても失敗し、多くの死傷者を出してしまいました。それと前後する11月27日、幕府は第二次征伐使として松平伊豆守信綱を任命。これを知った重昌は、松平信綱到着前に何とか落城させないと武士としての面子が立たぬという焦りから、翌1638年(寛永15年)1月1日明け七つ、三度目の総攻撃を決行しました。久留米藩の有馬勢が大手から三の丸に、佐賀藩鍋島勢が搦手から三の丸出丸、松倉勢は搦手を攻めました。さらに急遽出陣を命じられた熊本藩細川勢がこれに加わりました。しかし一揆勢の猛攻撃に戦況は膠着。重昌は意を決して馬から下り、搦手にあった松倉勢を助けるべく、二の丸寄り三の丸正面の塀際へ出たところを、一揆勢の集中射撃を浴びて壮絶な討死を遂げました。眉間を撃ち抜かれた、とも、胸部を撃たれた、とも、伝えられています。享年52歳(または51歳)でした。この時の幕府連合軍側の死傷者は4000人近くに上った、と云われています。
  この総攻撃の直前、重昌は「新玉の年の始めに散る花の 名のみ残らば魁と知れ(”散る”ではなく”咲く”とする説もあり)」という歌を残しています。これが彼の辞世となりました。

  『SHIROH』の中では、松倉勝家こと、かっちゃんと大の仲良し、という設定になっていますが、定かではありません。作中ではかっちゃんと共にチャラチャラした人物として描かれていますが、このあたりは四郎勢との対比を色濃くするための演出と思われます。また、かっちゃんとしげちゃんの楽しいやりとりは、ほぼ全員が死んでしまうという、この重い物語の中にあって、唯一、肩の力を抜いて楽しめるオアシスのような場所でもあった気がします。