+++ 天草四郎時貞 +++
 

  1622年(元和8年)天草の大矢野で誕生(大矢野中越の浦1383番地と云われています)。本名は益田四郎。父・益田甚兵衛好次(洗礼名:ペイトロ)と母(本名不詳,洗礼名:マルタ)の間に長男として生まれました。甚兵衛40歳の時の子ということになります。姉・福(洗礼名:レシイナ)、妹・萬(洗礼名:マルイナ)の3人兄弟と云われていますが、一説には他にも姉と妹(つる)がいたという説もあります。また一揆の首謀者のひとりでもある渡辺小左衛門(洗礼名:ムラシニ)は姉・福の夫、すなわち姉婿となります。
  戦国時代、益田家は大矢野城主の有力な家臣で越の浦一帯の管理を任されており、大矢野の特産品や海産物を元に交易を行っていたようです。つまり四郎は名のある家柄の子ということになります。父の甚兵衛は宇土城主・小西行長の遺臣で、関ヶ原の合戦(1600年)で敗れ小西浪人になった後は大矢野へ戻っていました。四郎はこの頃誕生したことになります。甚兵衛が小西行長に仕えた後も、祖父は大矢野氏に仕えており、天草・島原の乱後まで生きていました。
  甚兵衛はその後、宇土へ戻り、農業と交易と行い、たびたび大矢野や長崎を訪れていました。幼少期を宇土のはずれの江辺村で過ごした四郎は、幼少時より才知にたけ、禅宗三日山如来寺で手習いをしたり、学問のために、たびたび長崎を訪れたことなどが知られています。長崎で洗礼を受けたと言われており、洗礼名をジェロニモ、またはフランシスコとする説がありますが、現在ではフランシスコ説が有力となっています。
  四郎には数々の伝説が残っており、幼い頃より数々の奇蹟を起こした、と伝えられています。湯島(天草と島原の間に位置する島)まで海の上を歩いて渡った、四郎が手を高く掲げるとその手に水がたまり、その水が怪我人を癒した、天から鳩を呼び、胸に抱くと鳩が卵を産みその卵の中からは天主さまの経文が現れた、など。乱後の唯一の生き残りである山田右衛門作の口述書の中で「四郎は、才知にかけて並ぶものなし、儒学や諸術を身に付けたデウスの生まれ変わりである」と語られています。また四郎はこの頃、大矢野四郎と名乗っていたとも言われています。キリシタン禁制下のことでもあり、本名を名乗るのは憚られたという理由のようです。
  1637年(寛永14年)の6月頃になると小西浪人たちがマルコス神父(ママコス上人)の預言書なるものを天草・島原の村々にふれを出しました。その内容は、聖書ヤコブの手紙(サンチャゴの手紙)の一説を引用したかたちで、(イタリア人の)マルコス神父が日本を離れる時、「当年より26年目(1637年)にあたりて必ず善人一人生まれ出づべし。その子、習はざるに諸学をきわめ、天に印しあらわれ、木にまんぢう(饅頭)なり、野山に白旗を立て、諸人の頭(こうべ)にくるす(十字架)立て申すべく候。東西に雲の焼け必ずあるべし、諸人の住所、皆、焼けはつべし。野も山も草も木も、皆、焼け申すべき由申し候。」というものでした(山田右衛門作口述書による)。この善人こそが四郎であるとして、四郎を総大将としてキリシタン一揆を団結させるための宗教的シンボルとすべく、着々と準備は進められていました。
  10月7日、大矢野本島の宮津に天草四郎の本拠地として礼拝堂(宮津教会)が設けられました。甚兵衛は「お前は、今日からわしが子ではなか。天草島原の救世主なのじゃ」と語ったとされています。すでに9月30日に宇土から大矢野に渡っていた四郎は10月9日より布教活動を開始。10月24日に、一揆の首謀者と言われる天草・島原の代表者達は、湯島(談合島)にて会談を行い、元服したばかりの益田四郎少年を一揆軍の総大将とし決起することを決定しました。このとき、四郎は「天草四郎時貞」と命名されました。四郎はまだ16歳。身長は155cmほどだった、と言われています。
  翌10月25日、島原にてキリシタン蜂起、呼応して10月29日には天草でも一揆が起こり、ここに天草・島原の乱が始まりました。天草四郎時貞は総大将とはいうものの、一揆軍のシンボル的な存在で、実際に陣頭指揮を執ったのは父である益田甚兵衛などの側近と云われています。
  12月1日、廃城となっていた島原半島の突端にある原城に一揆軍の籠城が始まりました。原城内での四郎は、歯におはぐろを入れて、髪を後ろで束ねて前髪を垂らし、額に十字架を立て、白衣を着て、手に御幣を持つ等、呪術的ないでたちをしていたことが記録されています。原城内でも洗礼を授けたり、説教をしていた、とされています。幕府軍の3度の総攻撃に耐えましたが、翌1638年(寛永15年)2月27日、幕府軍の総攻撃により、2月28日に遂に落城。
  天草四郎時貞は2月28日の早朝、原城本丸内で細川藩の陣野佐左衛門により討ち取られました。その際、四郎の側には侍女がひとりだけ付き添っていたそうです。幕府軍に捕らえられていた母のマルタに首実検をさせたところ、母は、「神の子である四郎が人に首を取られるはずがない」と言ったと言われていますが、同じ年頃の首を幾つも見せられる中、ひとつの首の前で泣き崩れたことから、この首が天草四郎のものと判明したようです。
  四郎の首は、一揆軍1万余りの首とともに原城大手門前に晒され、さらに、一揆軍の首謀者の首とともに長崎の出島で7日間晒されました。この措置は出島に収容されていたポルトガル人への見せしめのため、すなわちキリシタン禁令を全世界に知らしめるため、と言われています。その後、西坂(長崎市西坂)に葬られましたが、お墓は原爆投下により焼失し、現存していません。
  原城内にある天草四郎のお墓は、有馬町西の浦の民家と海岸線の境界に築かれた通路から発見され、西有馬の人々に祀られていたものを原城に移したもので、実際に四郎がここに葬られているわけではありません。墓碑には「○保○年 天草四郎時貞○ ○二月廿八日母」と刻まれていますが、四郎の母(及び一族郎党)は、乱の直後に処刑されているため、四郎の死を悼む人々の手により、母の身になって造られたものではないかと云われています。お墓には今もお花が絶えず、人々が祈りを捧げています。

  『SHIROH』の中では、天草四郎というひとりの実在した人物を、シローと益田四郎時貞(以下、時貞)の二人の人物に振り分けているため、当然、事実(と伝えられていること)と異なる部分があります。時貞については、島原にいた、という点。また、時貞が腕の立つ剣士で実際に陣頭指揮を執ったというところ。投獄された甚兵衛と福を奪還した、という事実もありませんし、時貞自ら総大将として蜂起したという点も脚色と思われます。それ以外の天草四郎のの設定については、家族関係や奇蹟の御業、長崎への留学等、ほぼ時貞の方に当てはめているものと思われます。シローについては存在そのものが創作で、船が難破して父が亡くなった、ということ以外、過去については全く語られておらず、謎の多い人物として描かれています。原城内でのシローの存在は、実際の天草四郎を彷彿とさせるようなシンボル的存在であり、降伏をよしとせず、最後までまるちりを説いたところなど、時貞と立場が逆転して天草四郎像に重なります。天草四郎の年齢は16歳と云われていますが、『SHIROH』の中ではお蜜さんのセリフなどから推測するに、シローが16歳という設定ではないかと思われます。シローと時貞の会話から判断して、時貞の方がどう見ても年長と受け取れるため、時貞の年齢設定は20代前半といったところでしょうか(異論はあるかも)。