+++ 天草・島原の乱の時代背景 +++
 

  1613年(慶長18年)に幕府によってキリシタン禁教令が出されると、キリシタンに対する弾圧は熾烈を極め、キリシタンの多かったこの島原・天草の地での迫害は壮絶なものであったと云われています。
  元々、天草は小西行長、島原は有馬晴信というキリシタン大名を領主とし、キリシタンの全盛時代を迎えたキリシタンの多い土地でした。
  ところが関ヶ原の戦いで豊臣方についた小西行長が敗れると様相が一変、それまで肥後の北部を治めていた加藤清正に肥後全土がまさかれることになり、翌年、清正に続いて領主となった唐津城主寺沢広高が相次いでキリシタンへの迫害を始めました。領主とはいうものの天草は飛び地であったため、富岡に城を築き、実際の統治は城代にまかされていたようです。三宅藤兵衛重利が城代家老として赴任してくると、キリシタン弾圧は一層厳しさを増し、多くの殉教者を出して、領民は表面上は次々と棄教していきました。
  島原でも、有馬氏が国替えになったあとは、新たに領主となった松倉重政が徹底的なキリシタンへの弾圧を行いました。さらに島原藩では島原城築城等に伴い、領民には過酷な労役と重税が課せられました。納めない者に対しては蓑踊りや逆さ吊りなどの厳しい処罰で領民を責め立てました。このような圧政はその子である勝家にも引き継がれ、キリシタンへの弾圧をさらに強化していきました。勝家が領主となってからは天災と凶作が相次ぎ、乱の前年におきた大旱魃では餓死者が多数出た上、未曾有の台風に襲われるなど、領民の我慢も限界に達していました。
  このようなキリシタンへの迫害と領主の圧政の一方で、関ヶ原の戦いで敗れた小西行長の遺臣も徳川幕府への不満を募らせていました。折りあらば徳川幕府に反旗を翻そうと企てていた彼らは、これらの農民達と合流、一致団結し、反乱を盛り上げました。その小西浪人とは、大矢野松右衛門、千束善左衛門、山善右衛門、大江源右衛門、森宗意の5名。彼らはさらに、同じく小西浪人であった益田甚兵衛好次の子、四郎という少年を天童に仕立てて一揆軍の象徴とすべく、天草・島原の村々にふれを出してまわりました。これがマルコス神父(ママコス上人)の預言書と呼ばれるもので、四郎こそが救世主であるとして、四郎を総大将としてキリシタン一揆を団結させるための宗教的シンボルとしたかったようです。総大将となった四郎には、この時、天草四郎時貞という武将名が与えられました。