+++ 天草・島原の乱の経過 +++
 

1637年(寛永14年)
6月 天草の小西浪人達が天草・島原の村々にふれを出し秘密裡にキリシタン再興を図る。
10月7日 益田甚兵衛好次の子、四郎、天草の大矢野の宮津教会を本拠地として擁立される。
10月9日 四郎、布教活動を開始。
10月15日 加津佐寿庵なる者、天草・島原へ檄を飛ばし、天草四郎を総大将とするキリシタン一揆への参加を促す。
10月24日
一揆の首謀者と言われる天草・島原の代表者達が湯島(談合島)にて会談を行い、益田四郎を一揆軍の総大将とし決起することを決定。四郎は「天草四郎時貞」と命名される。
10月25日
(12月11日)
島原領内で農民が蜂起。有馬の代官林兵左衛門を殺害し、寺社を焼く。
10月26日
(12月12日)
一揆の討伐に出た島原藩松倉家の家老岡本新兵衛、多賀主水が兵を率い深江村に迎撃、敗走し、追尾した一揆軍は島原城を襲う。一揆軍はその後、島原半島の南部をほぼ勢力下に置き、布津、堂崎、有江、口之津、加津佐、串山の各村も全村あげてこれに参加。その数は2万3千にのぼる
10月29日
(12月15日)
天草でもキリシタン一揆が起きる。富岡城代三宅藤兵衛重利、唐津本城へ救援を乞う。
10月30日
渡辺小左衛門(四郎の姉婿)、三角郡浦(こうのうら)で謀計に合い捕縛される。四郎の母・姉・妹もまた宇土郊外江辺村で細川家の役人に捕らえられる。
11月4日 総大将・天草四郎時貞の軍勢、有馬大江に渡る。
11月5日 唐津の援軍、天草に到着。
11月7日 富岡城代家老三宅藤兵衛が本渡へ出陣。 
11月9日 天草・島原の一揆のこと、江戸幕府に達する。三河深溝(ふこうず)城主・板倉重昌、江戸城目付・石谷貞清を一揆討伐を上使とすることを決定する。 
11月11日 幕府、九州諸大名に帰国を命じる。
11月13日 天草四郎勢、天草の危急を聞き、急ぎ天草へ引き返す(上津浦から上陸)。
11月14日
(12月30日)
天草四郎勢、上津浦より進軍開始。大島子、本渡で三宅城代勢、唐津の援軍と激突。一揆軍は勝利し、藤兵衛は討死。
11月19日
(1月4日)
天草四郎勢、富岡城攻撃。城兵はよく防ぎ、これを退ける。
11月22日
(1月7日)
天草四郎勢、再度、富岡城攻撃。一揆軍は敗退。有馬、大矢野、上津浦に退く。四郎は坂瀬川より船で原城へ向かう。
11月24日 松倉勝家、島原城へ帰る。一揆軍は島原城の包囲を解き、原城へと向かう。
11月25日 天草四郎ら大矢野、上津浦の天草一揆勢、原城目指して渡航を開始する。
11月26日 板倉重昌ら小倉へ到着。細川家に天草出兵を命じる。
11月27日 幕府、第二次征伐使として老中松平伊豆守信綱らを上使に命じる。
12月3日
(1月17日)
天草四郎、原城へ入城。前後して島原と天草の一揆勢が合流し、原城に籠城する。
12月5日
(1月15日)
板倉重昌、島原到着。
12月10日 板倉重昌、原城へ第一回の総攻撃。島原松倉、佐賀鍋島藩の兵を含む2万数千の軍勢で原城を攻めたが全く歯が立たず。
12月20日 板倉重昌、原城へ第二回目の総攻撃。さらに久留米藩有馬氏、柳川藩立花氏の加勢を得て4万数千の軍勢をもって攻めたがまたしても失敗し、多くの死傷者を出す。
1638年(寛永15年)
1月1日 板倉重昌は、早暁、三度目の総攻撃を決行。戦況は膠着し重昌は討死。幕府連合軍側の死傷者は4000人近くに上った。
その後、松平伊豆守信綱率いる幕府連合軍は12万5千の軍勢で陸と海から原城を包囲、兵糧作戦へと切り替える。また原城との間でさかんに矢文が交わされる。
1月22日 松平伊豆守信綱の陣営へ、生け捕りになっていた四郎の母・姉・妹・姉婿らが引っ立てられ、投降勧告である一揆勢への書状をしたためさせられる。また幼い子供達を城内への使者に立てる。
2月8日 勧告拒否の書状を持って使者が帰る。
2月27日
(4月11日)
松平伊豆守信綱は軍議を開き、翌日の2月28日を総攻撃と決定する。しかし、二ノ丸出丸に攻め入った佐賀鍋島藩の抜け駆けにより、軍議当日の九ツ(正午)頃、原城への総攻撃開始。
2月28日
(4月12日)
原城落城。総大将・天草四郎、および一揆勢3万7千人は全員討死。
3月3日 生け捕りにされていた四郎甥・小平、妹・万、打ち首。
3月6日 四郎母、姉・福、姉婿・渡辺小左衛門、打ち首。

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