秒速50センチメートル


 昨日は観測史上もっとも早く真夏日が観測された。

 天気予報でそんなことを気象予報士が話していた。

 おかげで、つい先週まで2分咲きだったはずの代々木公園の桜がいきなり満開直前にまでなっているという。

 体調を崩して部屋で安静にしていた彼女も、昨日病院から戻ってからは調子もいいようだ。

 のそのそと部屋から起き出してきて、いつの間にか僕の後ろからテレビの画面を覗き込んでいる。

 テレビに映る代々木公園の桜の風景に

 「ねぇ、桜見に行こう」

 と突発的に言い出せるぐらいには元気になったようだ。

 正直に言えば、あの喧騒とカオスの中に彼女を連れ出す気にはなれなかった。

 そんなことを言う僕にぐうたら亭主の烙印を押すかのように彼女は攻め立てる。

 「せっかくの休みなんだから、部屋でごろごろそいていたら牛になっちゃうよ」

 朝から洗濯をして(といっても浴槽に洗濯物をいれてボタンを押すだけ)朝食を作った。
 (といっても、シリアルに牛乳をかけただけ)旦那をつかまえてそんなことを言うのか?

 「ねぇ、お弁当つくるから桜、見に行こう?」

 「わかった、桜は見に行こう。けどお弁当は却下だな」

 「どうして?」

 「お弁当をもって桜を見に行く。それはとっても素敵なアイデアだけれど、おそらく冷蔵庫の中に
 キミが腕を振るうだけの材料は残されてはいないと思う」

 僕はゆっくりとテーブルの上を指差す。

 コーンフレークと牛乳。

 以上、今日の朝食。

 「名コック、材料なければ・・・」

 「ごめんなさい、ここ最近買い出しできてなかったから」

 「それは仕方がないよ、体調崩していたんだから。僕の方も仕事が忙しくて買い物代わりにいけなかったし」

 黙り込んでしまった彼女に責任はない。

 そのことを彼女に伝えようと言葉を模索していた時、彼女が口を開いた。

 「じゃ、買い物行こう。で、帰ってきたらお弁当作るからそれからお花見」

 「お花見に行くって言うのは決定事項なわけだ・・・」

 「もちろん」

 「わかりました、じゃあそのプランで」

 「うん」

 そういってリモコンでテレビを消しながら、ドアに手をかけた彼女に一言上着を持ってくるようにだけ言葉をかけた。

 天気ははれているが、どうも風が強いという話を件の気象予報士が言っていたことを思い出した。

 彼女がピンク色のカーディガンを羽織って家から出てきた。

 僕が車道側を歩き、彼女は歩道側を歩く。

 僕の肘に彼女の腕がゆっくりとからまる。

 体重をかけるでもなく、引っ張るでもなく、もとからそういった形であったかのように二人ゆっくりと歩き続ける。

 小田急線沿いの踏み切りで遮断機が警報を鳴らしながら下りはじめた。

 僕達は走り出しもせず、そのままのペースで歩き、そして踏み切りの前で二人並んで列車の行き過ぎるのを待った。

 上下線が行き過ぎた後、列車が巻き上げたのか、強い南風が吹きすぎたのか、線路向こうの旧家に植えられていた沢山の桜の花びらが、僕らの眼前で舞った。

 『まるで雪みたいだ』そんなことを思っていた僕の横で彼女が雑学知識を披露してくれた。

 その昔、まだ小学生だった頃。横断歩道のゼブラゾーンで白い部分だけを踏むようにして道路を横断するという遊びをしたことがあった。

 いち、に、いち、に、とリズムをとりながら、およそ50センチメートル先の白い歩道部分を目指して小さくステップを踏んだ。

 その時は自分ひとりで、声を出して、リズムをつけて小走りをしていた。

 僕は、スーパーの手前で彼女の腕を放すと自分の手で彼女の手を握り締めた。

 怪訝な顔をする彼女に「桜、見に行こう」それだけ言うと秒速50センチメートルで参宮橋公園を目指し歩き出した。

 「いち、に、いち、に」

 と、声を出しながら・・・。

 最初はわけもわからず付いてくるだけだった彼女も、途中から僕の横に並んで歩きながら

 「いち、に、いち、に」

 と、ついてきてくれた。

 造成されたばかりの小さな公園には、もうしわけ程度にだけれど桜の木が植えられていた。

 代々木公園の桜並木にはちょっと見劣りするけれど、やっぱりその桜の花びらは秒速5センチメートルで僕らの前で
舞っていた。

 「明里・・・。来年も、一緒に桜見にいこうな」

 そう声をかけながら、ゆっくりと彼女を抱き寄せた。

 

 『うん、一緒に桜見にこようね。でも、来年は二人っきりじゃないかもしれないよ』
 そういって、僕の胸の中で彼女は、くすりと笑った。
 
 
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