僕等の夏
「ほら早く、こっちこっち」
5メートル程先を歩くあゆが、後ろを時々振り返りながら僕をせかす。
「そんなに慌てなくったって、山は逃げないよ」
けもの道のような細い道を歩きながら、僕らはかつて二人だけの秘密の学校だった場所を目指していた。
「あら知らないの。山は逃げないけど時間は逃げるのよ」
いたずらっぽく笑う彼女は、そう言って立ち止まると、僕の方に向き直った。
「どーゆう事さ?」
彼女の頭越しに、木々の間を抜けた柔らかい光が差し込んでくる。
あゆのディパックに天使の羽は付いていないけれど、あの天使の人形がファスナーの部分に取り付けられ、あゆの動きに合わせて揺れている。
僕には、一瞬その天使の人形が彼女にダブって見えた。
「だって、お弁当は12時に食べたいじゃない。このペースだと向こうに着く頃には12時をすぎてしまうよ」
そう言いながら、彼女は自分の背中のバックを指差した。
なんというか、彼女のその『お弁当』と言う言葉に、さっきまでのロマンチックな気分は一発で吹き飛んだ。
「お弁当作ってきたの?」
純粋に驚いただけだったのだが、彼女の方は僕の言葉になにやら色々と想像したらしい。
「あーひどい、私だってお弁当ぐらい作れるんだからね。それに、たい焼きをだして『はいおべんとう』なんてこともしないんだから!」
と、頬を赤く染めながら力説をしはじめた。
僕は、あゆのその様子が妙にかわいくて、ついつい悪乗りしてしまう。
「もしかして、たい焼きの刺身とか、たい焼き鍋とかじゃあないよね?」
「違うもん!そんなテレビ番組の罰ゲームみたいなお弁当つくらないもん」
「カツカレー7杯とか?」
「そんなに食べられる人いるの?」
「いや、世の中は広いから、もしかしたら食べられる人も居るかもしれないぞ」
自分でもずいぶん訳のわからない事を言っているとは思ったけれど、今はあゆとのこんなやりとりも、なんだか楽しくてしかたがない。
「ちゃんと2人分作ってきたのに、そんなに言うならあげないからね」
「あ、ごめん、欲しい欲しい」
僕は両手で拝むようなかっこをして、あゆのご機嫌をうかがう。
彼女も、まあ機嫌が直ったようで笑いながら僕に話しかけてきた。
「ちゃんと、デザートもあるからね」
「山葉堂のワッフル?」
多分違うだろうと思いながらもあゆに尋ねた。
「ぶーっ、デザートはたい焼きでした」
「あっやっぱり、たい焼きはあるんだね」
「いーじゃない、ね、早くいこう!」
あゆが向き直って歩き出そうとした瞬間、突然彼女の姿が目の前から消えた、ような気がした。
右足のかかとを、木の根にひっかけたのだ。
"どしん!"
大きな音を立てて、あゆはしりもちをついた。
僕はあわてて彼女のもとに駆け寄った。よかった、ケガはないようだ。
背負っていたバックがクッションの役目もしたため、後頭部も打たずに済んだようだ。
僕はホッとした。
「ごめんなさい、少しだけお弁当のメニュー訂正」
「どうしたの?」
何が言いたいのかわからずに僕はあゆの言葉を待った。
「えっと、デザートはちょっとつぶれたタイヤキ…」
「ちょっと、だね?」
僕は笑いそうになるのを必至でこらえながら、彼女を起こす為に右腕を差し出した。
「私のせいで、この樹が切られてしまったんだよね」
さっきまでお弁当を広げていた大きな樹の切り株を眺めながら、あゆは小さく呟いた。
7年前、そこには大きな樹があった。
「だけど、それは…」
言いよどむ僕を一瞥したあゆは、ディパックに付いている天使の人形に手を伸ばした。彼女は人形をバックから取り外すと両手でそれを持ち
、じっと見つめ、ゆっくりと反芻するように話し始めた。
「ここへ来るの、本当は怖かったの」
今は切り株だけになってしまったその場所に腰を落として座り、あゆはひと言ひと言、確認するように話し続けた。
「この樹がもうないのは聞いて知ってはいたの。でもね、あたしの記憶の中であの大きな樹は今でもここにあるはずなの。そして私にとってその
記憶はほんの少し前のことなのよ」
僕は何も言えず、彼女をじっと見つめる事しか出来なかった。
「実際には7年も経っちゃってるのに…」
『7年』
それはたしかに、僕にとっても苦い言葉。
7年前、伸ばそうとしても、届くことのなかった僕の腕。
そして、夕焼けよりも真っ赤に染まった白い地面。
息をするだけで肺が痛くなるような寒さの中、吹き続けた北風の冷たさを、今でも僕ははっきりと思い出す事が出来る。
「でも」
あゆは人形をぎゅうっと抱きしめると顔を上げ僕の方を見た。
「でも?」
「怖いからって、この場所を避けるような生き方をしたくなかったの」
「え?」
「あなたと…」
彼女の目元に、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「あなたと一緒に、もう一度この学校に来たかったの。ここから、もう一度始めたかったの」
「あゆ…」
「ここは、あなたとの思い出の場所だから。怖い場所のままにしたくなかったの」
あゆは手のひらで目元を拭うと、天使の人形を離した。
ぼくはあゆの左隣に座り、彼女のひざの上におかれた天使の人形を覗き込んだ。
「天使の人形のおかげかな?」
「ううん、違うわ。あなたのお陰よ」
「ここに来て、2人で一緒にお弁当食べて、デザートに少しつぶれたたい焼きをたべたら」
「かなりつぶれた、たい焼きだろ?」
「そーね」
あゆがくすりと笑う。
「そうしているうちに、あたし何を怖がってたんだろう、って思えるようになったの。過ぎてしまった時間は戻らないけど…」
あゆは言葉を続ける。
「思い出は、思いだすだけじゃなくて、これから作っていく事も出来るんですもの」
僕らの脇を心地よい乾いた風が通り抜けていく。
揺れる髪を抑える事もせず、あゆは目をつぶり大きく深呼吸をした。
「どうしたの?」
「なんとなくだけど、風の匂いが変わったような気がしたの」
「ああ、風の吹く方向が変ったからかもしれない」
「方向?」
「まあ、もうすぐ夏がくる、ってことだよ」
「夏、そーか夏がくるんだよね」
よく考えたら、僕たちが一緒に過ごしたのは冬だけだった。
それは当然と言えば当然なのだが、なにやら奇妙な気分だった。
「もう何年もこんな風にあゆと過ごしてきたような気になっていたけれど、初めての夏なんだよな?」
「そう、そしてこの学校で迎える初めての夏休み」
「終業式はまだやってないと思うけど?」
「そんな、めんどくさいものはこの学校にはないの、もちろん通知票なんてゆう無粋なものもね」
「ずいぶん都合がいい学校だ」
「あ、でも夏休みの宿題はあるわよ」
「宿題、どんな宿題だい?」
「2人で夏休みの思い出を沢山つくることよ」
「なるほど、そうゆう宿題なら大歓迎だ」
そう言って、ぼくはあゆの肩を抱えたまま、この夏休み最初の2人の思い出を互いの唇に残した。
僕たちの住む北の街にも、短い夏がやってきた。
2人で過ごす最初の夏が…
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