『豊かさを求めて』
序文
第1章 構造の把握
1.経済優先主義
2.経済優先主義と教育
第2章 人間性の形成及び、ドイツの現状について
1.人間性の形成、基本的人権
2.ドイツの現状
第3章 新しい価値観の創造
おわりに
現代は「人間性」欠落の時代である。
人間性とは、他の人に対して、思いやったり気遣ったりする、ヒューマンな気持ちであり、知人やそれ以外の人々も優しくなれる心の寛容さや愛情、情緒的なものである。
試みに統計などで「今のあなたの生活は幸せですか」という質問に対して、多くの人々が「No」と答える。彼らは、揃って「お金やモノには苦労はしていないが、精神的な心の部分で満たされるものがない」という。
子供たちが、昔では信じられない傷害事件を起こし、また一方で金銭目的のためだけに援助交際という名の売春行為を続けている。両親や地域社会から心の温かさをもらうこと無く、ただ温かな心を求め、夜の街を徘徊していく。大人たちもまた、通勤ラッシュ、サービス残業などにより、心に安らぎを持てぬまま疲労をいたずらに蓄積し、ただひたすらに働き、疲れ、漠然と倒れていく。過労死も、また一つの社会が内包している病気である。
戦争を生き残ってきた人たちは、その貧困という惨めな経験から物質的な豊かさを求めていった。そのためには、経済を強くしていかなければならない。それが日本人の豊かな生活の価値基準であった。経済優先主義である。その価値基準のために、様々なシステムが数多く構築され、国家、企業、家庭をあげてバックアップしてきた。そして、その価値基準のおかげで今の経済大国日本がある。戦後は、この価値基準を容易に受け入れることができ、またそのために大人たちは一生懸命に働いた。
しかし、生活・文化が高度に発展していきこれらを享受するようになると、物質的な豊かさ以上に人々は精神的な豊かさを切望するようになっていった。その背景としては、物質的な豊かさばかりに目がいき、精神的な豊かさを享受できなくなってしまった。または、物質的な豊かさのために精神的な豊かさを犠牲にしてきたのである。そして、バブル好況から不況の時代。企業から多くの労働者が解雇されていく。政治不信。地域社会の崩壊、家庭の崩壊、自然の崩壊。現代社会が経済を優先する生活の中で、人々は「人間性」を維持・発展していくための要素、土壌を失ったのである。
物質的な豊かさを過度に求めていった日本の価値基準は、いまや明らかな崩壊状態にある。今の市民は、不況といわれるこの状態においてなお、いや、ひどく切ない時代だからこそ精神的に豊かな生活を求めている。
論旨を進めるに当たり、「今の価値基準を形成してきた社会構造について、できる限りの把握」をし、新しい価値基準を模索していこうと思う。人間として、豊かなを生活をするとは一体どういうモノだろうか。
資本主義社会は、目下のところ最良とされている経済システムであり、日本も日本的経営という名の独自の形態をとっている。この経済システムは、いまや国家の力など到底及ばない権限を持っており、何者もその力を止めることはできない。では、そのシステムについて、若干の説明をしてみよう。
近代経済学では、あらゆる財を、入手するのに対価を要するモノ(経済財)とタダで手に入るモノ(自由財)とに分ける。自由財とは、空気や日光、雨、青空や広大な原野、野原や野鳥、川のせせらぎ、遙か彼方の雪を頂いた山々、早朝のすがすがしさ、美しい夕焼けなどであり、これらの自然物は人間たちに憩いと安らぎをもたらしてくれる。
また、自然物以外にも、人々の親切や好意、思いやりといったものも人間の暮らしには必要不可欠である。しかし、これらは何ら経済とは関係ないのである。
つまり、経済学の視点と暮らしの視点には、このような隔たりがあることをまず、認識してほしい。有用であるものは商品化され、それがたとえ人殺しの道具であっても、買い手はつく。また、逆に親切や思いやりがいかに人間生活にとって大事でもあっても、有用でないものは価値ゼロなのである。
この価値観が、いまの日本に蔓延しているのである。そう、戦後の日本は、「経済的に無用無価値なもの」を切り捨ててきた。そして、いま、それが多大な弊害を招いている。 例えば、学校ではウサギを飼い慣らすのが上手だとか、受験科目ではないが体育が得意であるといったことは、受験体制の中では価値ゼロなのである。せっかくの個性が、ここでスポイルされている生徒は、一体どうしたらいいのだろうか。いわゆる「いじめ」や「不登校」は、このようなシステムが生み出した病気である。
また、労働の現場では経済が家庭から夫、父親を収奪し、労働に固執させることによって多大な利益を手に入れることが出来た反面、長時間労働による肉体的精神的な疲労からくる過労死や、熟年離婚、家庭内暴力、非行などが問題になっている。
さらに、かつては井戸や手押しポンプで汲み上げていた天然水が、いまではミネラルウォーターとして商品化され、家庭では親が面倒を見ていた子供の勉強を塾任せにし(受験技術をサービスとして買う)、臓器も出産能力(代理母)も商品化してしまった。商品依存度が高くなった分、暮らしの中身も変質してきた。家族に限っても、家族構成員が個々に外部と商品交換関係を持つ度合いを強めるにつれて、必然的に家族内部の人間関係が希薄になっていく。モノが人間関係に介在することによって、生の感情の衝突が入り込む余地が無くなっていく。家庭崩壊はここにも原因があったといわざるをえない。
他人に何かをする行為が次々と「サービス」に格上げされ、対価を要求するようになっていく。対価なしの人間関係が成り立つ余地がますます狭まっていく。純粋に好意から出る無償の善行や相互に助け合うことが馬鹿馬鹿しく思えてくる。しかし、そんなことはないと思いたい。だが、現実として経済優先主義が強くなれば強くなるほど、人間性を欠落していくのである。では、次に経済優先主義によって変わってしまった具体的な事例として、教育の分野について考察していこうと思う。
高度経済成長期はひたすらに労働力を求めていたが、低成長時代に入ると質の高い労働力が必要になり、経済界は政府に陳情した。その結果に出来たのが、偏差値教育と一斉試験の実施である。
こうして、企業が出来る限り良い大学を出ている学生を取るようになると、予備校・塾、高校、小中学校、幼稚園は競って、自分の学校の質を高める、つまり、受験に強い生徒を作るシステムに変容していった。こうして、教育の現場は序列化、能力主義、競争主義、管理教育という偏差値による選別の修羅場と化していったのである。そして、教育は「自由化」という名のもとに次々と「教育の商品化」をされていくのである。
この偏差値という一元化された選別状態の中で、はたして子供たちが多様で文化的な豊かな生活を送ることは出来るのだろうか。それは否である。現実には子供たちは友情を深めることなく、四六時中お互いをライバル視し、内申書やテストという脅迫状を突きつけられ、そのやり場のない怒り・不満がいじめや不登校の原因を生んでいる。経済優先主義という名のもとに子供の人権が侵害されているのは、もはや明らかではないだろうか。
教育というものは本来、文化の伝達イコール若い世代の成長という二重性を含んでおり、それは社会的活動の基底をなすものである。つまり、教育なくして社会的な土台、歴史の連続性の契機そのものが消滅しかねないのである。子供たちが夜遅くまで塾で勉強をして、電車で仮眠をとりながら帰宅し、1人で遅い晩御飯、その後また勉強をして眠り、電車で仮眠をとりながらの登校。子供たちにこんな異常な生活をさせて本当に良いのだろうか。
いまの日本は、様々なシステムの中で経済優先主義という名の価値観のもとで生きている。人間性欠落の時代といっても何ら過言ではないだろう。しかし、一体どうしたらこの価値観を変えることができるのだろうか。つまり、どうすれば私たちの人間性を回復させることができ、かつ今の経済システムと上手に付き合っていけるのだろうか、ということになる。次章では、人間性を形成している基本的人権とその要素、土壌とこの経済システムと上手に付き合っているドイツの現状を考察してみることにする。
第2章 人間性の形成及び、ドイツの現状について
1.人間性の形成、基本的人権
人間が人間たらんとするときに、一番必要な要素は基本的人権である。基本的人権というのは、国籍、性別、肌・髪・瞳の色、年齢など全ての事柄に関して何ら差別されることはなく平等であり、文化的で健康的な生活を送ることが出来る権利のことである。そのために様々な権利が保障されると同時に様々な義務を負っている。さて、基本的人権が保障されたとしても、その人間が物質的にも精神的にも豊かな生活を営むためには、一体どのような要素が必要なのであろうか。
それは、労働などの職業人としての行為や、家事育児などの家庭人としての行為、そして、地域や政治参加、余暇、ボランティアなどの地域市民や政治家としての行為がある。これらは人間性を形成していく上で非常に重要な要素であり、これらの要素なくして人間性は形成されないし、また、これらの行為はバランスよく行われるものであり、一つだけを集中的に行うと人間性を崩壊させることにもつながる。
例として労働だけに身を投じている人ほど過労死の危険性が高まるが、これは労働だけに集中していて、あたかも自分の存在意義を労働にしか自己実現できないと思いこんでしまうことに問題があるからである。労働は人間性を維持・発展させていく重要な要素ではあるが、家庭や地域と対話したり、余暇を楽しむことによって心や体を回復したり、新たな思想や自分を発見することによって、人はまた働くことが出来るのである。
このように人間は多様な人々や価値観と交わっていくことによって、人間性を維持・発展させていくのである。
さてでは、人間性を形成させている土壌とは、一体何なのであろうか。つまり、上の3要素を自由に行えるためには、どのようなものが必要なのであろうか。
それは、社会資本、社会保障、法律などである。これらは「公共」の設備やサービスを提供してくれるものを指す。例えば、福祉やボランティア、住宅、交通、財団法人、休暇村、個展、コンサート、講演会、デモ、ストライキ、選挙、奨学制度、低金利の貸し出し、教育基本法、労働三法、雇用機会均等法、NPO法などである。これらの各種公共サービスの充実が、人間性を形成する上での土壌となるのである。
例えば、女性が労働者として社会進出をしたくても、男性の偏見がそれを許さない時、雇用機会均等法という「土壌」が女性労働者の社会進出を可能にしていくのである。しかし、日本にはいまだに数多くの偏見や歴史、慣習が根強くあり、女性の社会進出にはまだ時間がかかりそうである。
または、各自治体で盛んに議論されている住民投票権条例の問題を巡っても、市民が間接民主制を補完する直接民主制を導入したいという要求。あるいは経済優先主義からくる開発思考をいまだに持ち続け、市民と地域社会の理想像とは遊離した地方議員に反対するための政治運動が今まさに新たな「土壌」づくりの真っ最中なのである。
つまり、人間性を維持・発展させていくためには、基本的人権が保障されることであり、基本的人権を保障するということは、その根拠となる土壌、つまり、各種の公共サービスを適切に相応に配分するということになるのである。当たり前のことなのだが、これが日本人には皮膚感覚で理解できていない。経済優先主義の日本では、そのような人権思想という教育すらしてこなかったので、そういう考え方が必然的に根ずかなかったのである。
経済優先主義という方法をとった日本は、基本的人権という考え方を切り捨てて今までやってきたのである。そして、そのツケが今になってまわってきたのである。
では、それらを踏まえた上で欧州、ドイツの現状を探ってみる。
ドイツの人口は日本の半分であるにもかかわらず、経済力は世界でもトップクラスである。その経済を下支えているのが実は、数多くの中小企業である。彼らは大企業の下請けをしているわけではなく、独自の優れた技術で経済を担っている。労働時間も大企業と同じように日本より500時間以上も短く、有給休暇も実質4−6週間もとっている。そして、数多くの市民が「今の生活に非常に満足している」と答えている。彼らの豊かさ感は、はたしてどこから感じられているのだろうか。
まず、特筆すべきところは労働時間の少なさではないだろうか。日本が年間2200時間労働に従事しているのに対して、ドイツでは1600時間しか働いていない。つまり、約75日以上も日本人は働いている計算になる。
また、基本的人権のところでも述べたが、日本と決定的に違うのは、先の社会資本、社会保障、法律の充実度である。
社会資本でいえば交通費の安さである。ドイツでは片道100円の切符で市中の地下鉄、市電、市バスのどれにも乗り継いで行くことが出来る。これは一般の場合であり、学生、老人、障害児では半額、または無料になっている。
住宅に関しても、国が厳しい土地の用途制限を定めた都市計画により、誰もがマイホームを持てるようになっている。例えば、ブレーメン、ハンブルグなどで一平米約1万円。ベルリンで一平米3万8千円である。ベルリンの学生アパートの家賃が1万8千円である。日本では東京の都心で一平米3千万円。中野区で一千万円。練馬区で二百万円。このように地価に百倍も差があるから、日本人がウサギ小屋に住まなければならないのである。いくら日本の平均賃金が高くても、この差を埋めることは到底不可能ではないだろうか。
さらに教育の現場では、基本的に1クラスの生徒数は18−23人程度であり、数学と英語の授業の時だけは、さらに教員が1人増えることになっている。また、障害児がいる場合には、その生徒の専用の教師もつくことになっている。だから、生徒たちは教えてくれる先生が増えるので、障害児は歓迎される。また、学校は高校まで午後一時に終る。土、日は休み。自由時間がふんだんにあるので、図書館に行ったり、サイクリングをしたり、ピアノやフルートやギターを習いに行く。クラブは学校にはなく、地域にあるので、子供たちはそこでスポーツや音楽を楽しむ。活動拠点は主に教会や児童会館などである。このようにのびのびと生活をしているドイツの子供と、学校が終わっても塾に通っている日本の子供のどちらが、将来たくましく創造性や多様性を持った人間になるかはいうまでもない。
このように日本とドイツには、数多くの差を見つけることが出来たと思う。その、共通の差は社会資本、社会保障、法律の充実度であると断定せざるを得ない。彼らは「創造的で多様な人々と交わっていくことによって、人間性を維持・発展させていく」をよく理解している。だから、そのために労働や家庭や政治を相応に果たしているのである。
これは今の日本人には、とても真似できるものではないのだろうか。そして、日本に真の豊かさを実現するためにはどうしたらいいのだろうか。これらを全て踏まえて、私たちが今後取り組んでいかなければならい様々な事柄について触れてみる。
第3章 新しい価値観の創造
序文で現代は人間性欠落の時代といい、第1章では経済を原因に探り、第2章では、人間性を作り上げている基本的人権とその要素、土壌とドイツとの生活の豊かさについて比較してみた。これら全てを踏まえた上で日本のおける新しい豊かさ感の構築を模索していこうと思う。
まず、はじめに一番わかりやすいのは労働時間の短縮である。先の3要素を日々行うためには、現行の労働時間ではあまりに時間が足りない。そのためにも、労働時間の短縮は急務となる。経済界からの反発は予想されるが、政府が断固たる意志で段階的に削減していくことを望む。いま私たちが出来る簡単な方法としては、有給休暇を細切れにすることによって退社時刻を早くする方法などがある。これは、子供を持った両親がとる手段の1つの例である。労働時間が減れば、それだけ3要素のうちに2つ、家庭と国家や地域社会に参加できる機会を得ることが出来る。そうして、人々は初めて社会的な行動がとれるようになるのである。つまり、要素の獲得である。
次に行うことは、社会資本、社会保障、法律の充実である。これら土壌の充実がいかに、人間を人間たらしめるものかを理解できているのならば、自明の理だと思われる。住宅や自然環境、福祉・介護、教育などは最優先課題であり、早急に取り組まなければならない。
老人福祉は1老人1部屋1介護人であり、教育では、授業時間短縮、学級毎の生徒の縮小、教員の増員及び待遇改善などである。そして、これらを支える地域社会やボランティアを育てていかなくてはならない。日本は先進国に比べて、地域社会やボランティアの組織化が遅れていて、日常的な様々な問題についてなかなか腰を据えて取り組むことが出来ていないのである。そのためにもNPO法の税制の優遇措置を盛り込んだ改法の施行を早急に策定させて、一刻も早く地域社会やボランティアに体力を付けさせなければならない。
そして、一番大事なことは一人一人が、「自分の豊かさ感を持つ」ことである。つまり、自分にとって「豊かな生活」とは一体どういうものなのか、ということを常に意識しながら生活をして欲しいということである。それは、創造的で多様な価値観との交流の中で生まれるものであり、様々な経験や発見をしてほしい。その方法は、人々によって様々であるが、読書や音楽や映画、旅行、仕事、スポーツ、散策、友達との他愛もない会話や真剣な討論。ふだん何気ない生活に様々に刺激が溢れているし、あるいは自分の住んでいる場所を離れることよって、自分の住んでいる場所が新鮮でたまらなく魅力的で楽しい場所に思えてくるかもしれない。
これらのことを不断の努力として行っていけば、豊かな生活を送ることは出来るようになっていくだろう。しかし、社会は決してそう簡単に変わるものではなく、私たち一人一人が強い意志を持って取り組まなければならない。
例えば、新潟県巻町で日本初の住民投票で原発に対して、NOという判断を下した。その後、町民が「クリーンな電力」として、太陽光発電を町営老人憩いの家に取り付ける案が提出されたが、議会で否決された。しかし、カンパによって、つまり行政から何の支援もされず町民の力で、その計画は実行に近づいている。さらに、来年の選挙の向けて原発反対派の候補者選びに意欲的に活動している。
以前は、地域のしがらみでなかなか原発に反対できなかったが、しかし今は時代が後押ししてくれている。自分たちの街は自分たちで作る、行政がやらないことは自分たちでやろう、という意識が高まりつつある。
または、兵庫県で行われた「トライやる・ウィーク」では、公立中学校2年生の生徒が老人ホーム、保育所、ガソリンスタンド、コンビニエンスストア、パン屋等の施設で1週間だけ働きながら、労働者の生の声を聞いた。その中で、彼らはふだん体験できない数多くのことを学び、今後の社会生活に生かされていくと思われる。
このように、小さくとも社会は少しずつ変革している。人々は経済優先主義に対して、小さなNOを言い始めているのである。その萌芽が今咲き始めた。
おわりに
日本人は豊かな生活イコール物質的な豊かさと勘違いしたことから悲劇が始まってしまったのかもしれない。物質的な豊かさを求めることは完全に間違ってはいないのだが、利益の出た資本を社会資本に投下することなく、再び「利益を得るためだけ」に経済に投資してしまったことに最終的なミスがあったと思われる。
日本人の豊かさ感や社会に対する意識が若者を中心に変わり始めている。政府や経済界は、こうした彼らの「社会に変革を求めている様々な声」をいかに吸収できるかにかかっているといっても過言ではない。多くの地域で様々な活動が展開されている。行政や企業がいかに彼らを支えていくことが出来るかによって、社会の豊かさが試されているのである。
すでに日本経済は歴史的に「終わりの始まり」が動き出し始めており、何者もその動きを止めることが出来ていない。その終わりを止めることが出来るかどうかが、今後の日本を再生にかかっていると思う。そのためには、一人一人が「豊かさとは何か」を常に問い、立ち上がっていかなければならないのである。
今後、私はこの論文を土台に生活していこうと思っています。自分でこのような論文を書いたのだから、何か自分から出来ることを見つけ、それを一つ一つ実行していこうと思う。NPOやNGOの話は非常に共感することが多く、自分も何かこういうボランティア団体に入って、政治的なアプローチをしてみたいと思いました。また、基本的人権という言葉の意味を机上の上だけですが、非常に多く事を私に学ばせてくれました。これをいかに政策の上に叩き上げ、実行していくかを自分でも試してみたいです。
「良く生きる」とは一体どういうものなのでしょうか。私は「自分のしたいことをのびのびと出来る雰囲気」だと思っています。みんなにとっての「良く生きる」とは一体どんなものなのでしょう。
参考文献・資料
・『過労自殺』 川人博著 岩波書店 1998
・『豊かさとは何か』 てる岡淑子著 岩波書店 1989
・『豊かさの精神病理』 大平健著 岩波書店 1990
・『市場システムを超えて』 高橋洋児著 中公親書 1997
現代日本人ための「世直し論」
・『現代社会と教育』 堀尾輝久著 岩波書店 1997
・『地方分権事始め』 田島義介著 岩波書店 1996
・『家族という関係』 金城清子著 岩波書店 1992
・『労働時間短縮』 日本労働弁護団編 労働教育センター 1991
・『基本的人権の考え方』 中川剛著 有斐閣 1991
・『ふだん着の人権』 北海道教育大学公開講座委員会編 北海道教育大学 1996
・「朝日新聞」 1999.1.5 21世紀私たちは第1部 あふれろ民力3
・「朝日新聞」 1999.1.8 21世紀私たちは第1部 あふれろ民力6