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トシボーとバンドの物語 |
小学生時代
(s36〜42) |
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★ギターへのあこがれ 子供の頃はごく平凡な子供だったようです。しかし、勉強もスポーツもそこそこで、学級委員なるものを2度ばかりやらされました。そんな小学6年生をシビレさせたのが加山雄三の「エレキの若大将」でした。もちろんベンチャーズもよかった(星由里子がモット良かったが)ですが。大林監督の映画「青春デンデケデケ?」の世界。しかし、母子家庭の我が家でギターなど買ってくれとは言えなかった。
★ギターとの出会い そこで思いついたのが、自作ギターの作成でした。当時薪風呂だったために、廃材が庭に山と積まれていて、その中から薄めの板と長めの棒切れを上手い事工夫してそれなりのギターもどきを作ったのでした。モズライトタイプのナチュラルウッドで・・・・・。弦には太目のエナメル線をはり、音は口で「テケテケテケテケ・・・ジャン」。自分では悦にいっていたのでしたが、見かねた母がしばらくしてから当時はやっていた「白いギター」を買ってきてくれました。嬉しかったのは言うまでもない。これが私とギターの出会いです。 |
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中学生時代
(s42〜45) |
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★グループサウンズ全盛 中学時代はグループサウンズ全盛期。同学年に3つのグループが誕生。2年生のとき、体育館で行われた音楽会で、3バンド演奏。私達が演奏したフォーセインツの「小さな日記」は、音楽の先生には好評でした。3年になると日劇ウエスタンカーニバルに、当時好きだったゴールデンカップスの演奏を聞きに行きました。しかし・・・・・・タイガースやテンプターズといって当時のスーパーグループが出演していたため、熱狂的なファンだらけで自由席は大混乱状態。ゆっくり見ることが出来ませんでした。
★クラプトンとの出会い その後、トップバンドのサイド゙ギターとなります。この時、友人宅で聞かされたクリームの「サンシャインオブユアラブ」と「ホワイトルーム」にはぶっ飛びました。この頃からクラプトンにあこがれるようになります。また、ビートルズも嫌いではありませんでしたが、チョット危ないローリングストーンズの方が好きでした。当時はソリッドギターは高価で、国産のヤマハやテスコですら手が届きませんでした。結局友人の無名メーカー(たしかハニー)のギターを借りていました。「NHKの放送でサンシャイン・・・はウーマントーンで、トーンをしぼって・・・」とクラプトンが解説しているのを見てマネをしてみましたが・・・・しかし、当時の国産ギターは悲惨で、トーン絞ったらポンポコポンの音になってしまいました。また、アンプをもらいに本牧のゴールデンカップスの事務所とか言うところへ行った事もありました。3つもらったアンプは真空管で、2つが壊れていましたが1つはどうにかなりましたね。
★天才ギターリストとの出会い 丁度そのころ、1つ下に天才ギターリストがいると言う事で、そいつの家(医者)の待合室に楽器を持ち込んで、合同で練習をしたこともありました。そいつこそ、何を隠そう天下のギターリスト「チャー」だったんです。どう言うわけか当時チャーは良くベース弾いていましたが?。弟がチャーの1つ下で、中学の時チャーが体育館で演奏したそうですが、すごかったそうです。私達も、卒業式の余興でバンドをやりサンシャインオブユアラブ、ホワイトルーム、サティズファクション、テルミーなどを演奏しました。 |
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高校生時代
(S45〜48) |
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★ライブコンサート 高校時代は、1年の後半にバンドを作ることになります。それがきっかけでバスケット部の先輩と喧嘩し2年の前半にバスケはやめいしまいました。その後軽音楽部に所属し、毎日のように練習していました。デビューは音楽室を貸しきってのライブコンサートでした。当時全盛だったグラファンのハートブレーカーは大受けでした。観客は廊下まであふれ大盛況でしたが、そこは身内、乗りすぎて、客席からはトイレットペーパーやら靴が飛んできましたね。不良のオネーちゃん達からは、ライブハウス出れるからやれば、などとお褒めの言葉もいただきました。
★バント活動活発化 3年のときは、地元でバンドを作り、文化祭のとき体育館で派手にやりました。オマケでバンマスの交流のあった蒲田の暴走族ピンクダイナマイツがついてきてしまいチョット・・・おかげで先生方からはひんしゅくをかいました。その頃なぜか草野球の応援にバンドやったことがあり、アンプが非力だったために野外では音が散って散々でした。暴走族のダンスパーティの演奏をしたのもこの頃でした。また、高校での練習では、他校からも遊びに来ていて、一緒にやっていた仲間には、なつかしの「銀座ナウ」にバンドでレギュラー出演し、一時宇崎竜童の「竜童組」のギターをやった友達もいました。 |
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大学生時代
(s48〜52) |
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★ロック研究会へ 大学では駒沢大学軽音楽部ロック研究会に所属しました。この研究会からは10年後「久保田利伸」が輩出しています。当時軽音楽部は300人もの大所帯で、文化祭での野外コンサートは当時としてはお金をかけていましたね。1キロワットのPAを使い各研究会が千人もの観客の前で演奏するのですが・・・。で、1年のとき私は幸運にも選抜バンドのリードギターに抜擢されまして(単に優れた先輩はみんな仕事していてこうして行事に出てこないだけですが)・・・・・。緊張するは当日モニターがなく音のバランスがつかめずメロメロでした・・・・、でも気持ちは最高でした。ダンスパーティや温泉ホテルの余興にもアルバイトで出かけ部費を稼いでいました。山田温泉に行ったとき、外人ストリッパーのバックバンドをやらされ、目が点になった事もありました。
★2度のぶっ飛び 当時ヒッピーなる種族?がはやっており、長髪にベルボトムのジーンスといういでたちでに頭にバンダナを巻いて、銀座あたりの路上で革製品やアクセサリーをハンドメイドして売っていました。友人の1人にそうした連中にあこがれていたやつがいて、銀座で皮の財布を作って売っていたところ、ヒッピー仲間が、「郷里に帰るんでこのギター買わない」 といわれ、超格安で買ったといい、我が家に持ち込んだのが何と「未開封の新品でギブソンレスポルデラックスゴールドトップ69年」でした。ぶっ飛びました。当時30万は下らない商品で今まで見た事もありませんでした。このギターはその後卒業するまで友人から借り受ける事になります。当時国産のグレコが全盛でしたが、重圧な低音とよく伸びる高音の音色は比ではありませんでした。借り受けてしばらくしてから、弟の仲間が恵比寿のスタジオでバンドやるので遊びにこないか、といわれ、ギブソンをぶら下げて行き、ブルースを弾いていたところに乱入してきたのが、私の中学の後輩で、弟の遊び仲間だった高3のチャーでした。私のギターを見るなり「貸してくれる」と言うので「いいよ」・・・・・すぐにヤマハ音楽教室のベースとドラムを連れて来てくれて演奏してくれたのが、かの「クロスロード」「サンシャインオブユアラブ」「バッジ」だったんです。これはものすごかった。チャーもそのギブソンデラックスを弾くのがはじめてで、相当気に入ったらしくマジでしばらく貸してくれと言われましたが、借り物だったので・・・・・・。それからしばらくは指がフリーズしてしまい、ギターが弾けませんでした。
★はじめてのハコバン 2年のとき、新宿のグランドキャバレーのバンドとして3ヶ月出演し当時としては破格の出演料20万円ももらっていました。ホステスは100人以上いました。キャバレーでの演奏初日、2ステージの演奏中にホステスサンが舞台に上がって来まして・・・・・・ショータイム・・・・・・いきなり脱ぎ始め、とうとうトップレスに・・・・・。ギターどころではなかったですね。ラッキー。また、そのときのボーカルが今一のため私も何曲か歌ったのですが、「マミーブルー」という曲を歌っているとき、何とホステスさんが近づいてきて「歌詞デタラメよ・・・」・・・。そーなんです、外人さんが3人もいたのです。横文字が苦手ということと覚える暇が無かったので、適当な英語を繋げていたのです。
その頃、所属(バイトとして)していたプロダクションの社長から、東北テレビにレギュラー出演しないかと言う話がありましたが、みんなの意見が一致せずお流れに。
★楽しかったバンド 2年の終わり頃、石打スキー場のディスコでの演奏のアルバイトを2ヶ月やりました。これは楽しかったです。心残りは、ただで出来るスキーを2日しかやらなかったことです。イタ、もリフトもただでOKたったのに・・・・・・。結構バンドマンはもてるのですが、ここではスキーのインストラクターにはかないませんでしたね。
★最後のバンド活動 最後に仕事をしたのは3年の後半、土浦の東京会館(?)とかいうディスコに、友達の変わりに10日ほど演奏しました。この時の寮の隣が川だと聞いたので、ギター持たずに釣竿を持って行ってひんしゅくを買いましたね。 |
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大学2年 |
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石打スターズ。左から二人目が私。昭和50年頃。最高に楽しい二ヶ月間でした。
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昭和57年頃 |
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高校時代の友人サライさんの結婚式で。昭和57年頃。歌はオリジナル「赤いセリカのテーマソング」でした。こうしてこの頃から、友人の結婚式ではオリジナルを作り唄っています。歌はメチャ下手ですが、心が伝わればそれで良いと思っています。結婚式では5曲ほどつくりました。 |
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昭和61年頃 |
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カフェバーで、バンドごっこ。昭和61年頃。
五郎ちゃん元気かな。ボーカルはパソコンの先生「テンチョウ」ギターは、私の高校時代のギターの先生「ソンチャン」です。 |
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現在 |
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今でも、結婚式があると勝手に手を上げて相変らずオリジナルを唄っています。最近は「赤いセリカのテーマソング」しか唄いませんが、娘達が嫁ぐとき、オヤジの心を積めこんで歌うのが夢ですね。
また、平成10年から駒大ロッ研同窓会と銘打って、オジサンバントを年に1度各地でやることにしています。平成10年は河口湖のスタジオホテルで3日間、11年は宇和島の隣町津島町のアーリータイムススタジオにて4日間、12年はおいちゃんのM-CAMPに参加。13年は岩手県の水沢市のさとちゃんとマンジロウに再会。そしてこの夏はM-CAMPにロッ研バンド「ザ・ロッケン」で出場。最近つくづく思うことは、音楽をやっていて良かったし、良き友を持ってハッピーです。 |
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