〒142-0051 品川区平塚2-19-20 ・(H20.4現在 児童数349名  ・ 学級数12)
京陽小学校の歴史は、明治維新まもない明治8年にまでさかのぼることになります。更に関東大震災や太平洋戦争という歴史的な流れの中で戸越や荏原地区の重要な学び舎として現在に至っています。そんな母校をチョットだけ紹介します。
●校歌  京陽小学校の校歌は、作曲家・音楽教育家として有名な下總皖一氏により作曲しれました。また、師は童謡・唱歌の作曲でも有名で、主なものに「たなばたさま」「電車ごっこ」「母の歌」「野菊」「スキー」「山のあなた」「花と花」「ほたる」「はてもなき」「はなび」「麥秋」「小麥畑で」などがあります。作詞は当時の教師だった方が作られたとのことです。
1、城南ここぞ  戸越台  富士のね遠く  あおぎつつ 日差し和らぐ  学びやは  ああなつかしの  わが京陽   2、心をみがき  身をきたえ  明るく学ぶ  若竹の かおる歴史を  はぐくみて  ああなつかしの  わが京陽  3、くめどもつきぬ  知恵の水  ともに結びて  きそいつつ 文化のはなを  さかさなん  ああなつかしの  わが京陽
開校130年関連行事・タイムカプセル開封式
 我が母校京陽小学校開校130周年記念行事の一環として、開校100周年当時の小学生達によってタイムカプセルに詰められた品々が開封された。私の丁度一回り下の世代がその当事者たちである。多数が母校に集結し、懐かしい一時を送ったようである。
 130周年行事は11月8日に挙行される。誰のための周年行事になるのか気になるところである。平塚地区の巷では、ドタバタを伝え聞く。同窓会よ、そして現Pよ、頑張ってほしい。
 この日、平塚地区各町会の青少年部とPTA関係者が一つになって模擬店を出店し、イベントに花を添えた。京陽小学校は地域に根付いた、地域に守られた小学校であることを忘れないでほしい。
模擬店は大盛況 産直も出店 バザーの開催
この中にタイムカプセルが タイムカプセル開封中 運び出されたタイムカプセル
タイムカプセルをあけて、中に詰められた思い出・・・を取り出しました。みんな懐かしそうです。

 
校章 校舎 桜の大木が沢山の卒業生を見届けています。 体育館
 
東門 南門 西門  
35年前の京陽小学校
左の校舎1階が職員室と校長室 左の白い校舎の位置が今の職員室のあたり
京陽小学校昔話(卒業文集からの抜粋)
私は京陽小学校第80回卒業生である。卒業の際に作成された文集の中に、京陽小学校の歴史と環境が記されている。戸越や平塚の昔を少しだけ垣間見る事も出来るので掲載してみた。
明治7年 戸越村の様子
明治7年の東京府資料によると、戸数173戸、879人、田んぼ9町、畑120町で、米、麦、大豆、あわ、ひえ、そば、たけのこ、いも等が主産物だった。(そう言えば私が子供の頃あちこちに小さい竹やぶがあったのは、戸越特産たけのこの名残か)
明治8年 1月 戸越村桐ヶ谷が中心となって、平塚村、居木橋村、下大崎村の4村共同で桐ヶ谷火葬場付近の民家を借りて学校を開いた。これが第二中学区第10番公立小学校桐渓学校であり、現在の京陽小学校の前身である。
明治11年 6月 平塚橋ぎわに新校舎を建てて移転した。そして、中延村、小山村の子供達を入れ、第二中学校第13番公立京陽小学校と改名し、ここに正式に京陽小学校が誕生したのである。名前の由来は創立当時の先生だった保母藤一郎氏の手紙によると次のように記されていた。「当時桐ヶ谷村に桐渓小学校がありました。職員は二人でした。中延に中山小学校があり、これも二人でした。新たに名称をつけるのに種々協議の結果、京城(江戸城)の南に面せるをもって京陽と決定しました。とにかく大昔のこととて郡内何れも寺子屋的な場かりのところへやっと小学校らしき一校ができました。
明治33年 当時の記録よりによると「進級試験を受けたもの108名、不合格3名、受けないで奉公に行ったもの8名」とあり、小学校でも落第があったようである。
はじめて遠足の記述あり。
二年生が矢口村へ行った、と記されている。35年には全校で芝公園にいっている。
明治43年 3月 新校舎完成。建設費用は3,650円であった。
明治45年 明治45年には京陽農業補修学校が併設された。やはり当時もこの一帯は農業地だったのだろう。
大正 大正時代になると生徒数は急増し、10年には二部授業となった。
大正6年 台風で水害にあった羽田小学校に雑記帳800冊、現金41円を送っている。
大正11年 学校付近にコレラが発生。
大正12年 関東大震災で被災した東京中心部の転入生が殺到。
大正13年 はじめて臨海学校の記述あり。
千葉県の興津に行き費用は13円、とある。(ちなみに私は岩井海岸で、費用は2.3千円だったのではないか)
天然痘が蔓延。
大正15年 4月 震災の影響が継続し、この年の始業式では何と3,500人もの生徒数をほこり、学級数は60にも達した。
大正15年11月 宮前小、小山小、大原小が開校。1,490の生徒が分散して行った。
昭和2年 はじめて林間学校の記述あり。低学年は三井別邸、高学年は多摩川となっている。その後沼津や箱根で行われたようである。
昭和3年 後地小が開校。539名が転出。
昭和7年 北海道・東北地方の大凶作に62円を送った。
昭和17年 第二京浜国道(国道1号線)が開通。
戦時中 昭和12年日中戦争勃発。16年日本軍は大陸に進攻。学校生活も大きく変化して行く。遠足は剛健遠足と称し、京陽少年団が結成され夏休みは特訓期間となった。廃品回収で14円を軍に寄付され、生徒は慰問袋を作った。強歩大会では17キロを3時間45分で歩いた。
17年には必勝祈願で、八幡様へ全校あげて行っている。また校内鍛錬も行われ、先生方は運動場に防空壕を掘った。
後半は疎開等で生徒数は激減。第1次集団疎開は19年8月静岡へ行っている。20年5月24日の大空襲で荏原一帯は焼失してしまう。京陽小学校もこの時に焼け落ちてしまう。(我が家にもその大空襲で焼け爛れて変形した硬貨が幾つもある)
20年6月には本土決戦に備え、静岡への疎開組が青森へ行っている。
20年6月頃京陽小学校では、残された29人の生徒で、戸越湯(20年ほど前に廃業。現コージーコーナーの横あたりにあった)で寺子屋式に授業が行われた。

第二次世界大戦も、ドイツの降服、長崎・広島への原爆投下、ソ連参戦、ポッダム宣言受諾により長くて辛い戦争は20年8月15終わる。
昭和20年 9月 終戦。空襲で校舎は焼失しため、中延国民学校を借りて授業が再開。
昭和20年10月 各地へ散らばった集団疎開組が帰り、平和の第1年目がスタートした。
昭和21年 京陽小学校の児童数は350名となる。
昭和21年1月 いよいよ給食が始まる。戦争による貧困、食糧難から栄養失調ぎみであった子供達の体力回復におおいに役だった。
昭和21年 3月 ラック5教室の新校舎が建ち、新たな京陽小での授業が始まる。
昭和22年 9月 民主化の波の中、第1回学校児童会が行われた。
昭和28年 7月 最初のプールが完成する。
昭和37年 3月 最初の体育館が完成する。
昭和41年10月 台風26号の被害にあった山梨県足和田村へ14,800円と小包6個を送った。
昭和42年10月 開校90周年記念式典挙行。(私の卒業した年に行われた)以下平成12年度学校要覧より
昭和45年 6月 「よい校風」の碑、岩石園完成。
昭和45年 8月 京陽小学校PTA文部大臣賞受賞
昭和45年10月 開校95周年記念式典挙行。
昭和50年  6月 校庭舗装工事完了。
昭和50年10月 校舎改築落成式挙行。
昭和53年11月 開校100周年記念カプセル完成。
昭和53年11月 開校100周年記念式典挙行。
昭和58年 8月 校庭改修工事完了。
昭和59年 7月 プール改築(9m×25m)
昭和60年10月 家庭科全国大会挙行。
昭和62年 3月 体育館落成を祝う会実施。
昭和63年 3月 防犯工事完了。
昭和63年10月 開校110周年記念式典挙行。
平成 2年 8月 西側校舎外壁工事完了。
平成 2年11月 屋上改修工事完了。
平成 4年 3月 印刷室改修工事完了。
平成 4年 9月 理科室改修工事完了。
平成 4年12月 校庭遊具(登り棒、雲梯)改修工事完了。
平成 5年 7月 図工室流し台改修工事完了。
平成 5年 8月 玄関アルミパーテーション設置。
平成 5年 8月 家庭科室改修工事完了。
平成 5年 9月 開校115周年記念式典挙行。
平成 5年11月 開校115周年記念集会、祝う会実施。
平成 6年22月 リサイクル活動優良校として表彰される。
平成 6年10月 交通安全優良校として表彰される。
平成 8年10月 パソコン設置(パソコン13台導入)
平成 8年 8月 防災簡易便槽・備蓄倉庫設置工事完了。
平成 8年 8月 階段室防火扉・校庭改修工事完了。
平成 9年 3月 防災井戸設置工事完了。
平成 9年12月 音楽室音場補正装置完成。
平成10年 3月 音声床面学校名表示塗装工事完了。
平成10年 3月 新校旗完成。
平成10年 8月 廊下・階段室塗装工事完了。
平成10年11月 開校120周年記念式典挙行。
平成11年 3月 屋外掲示板除幕式挙行。
平成11年 3月 昭和19年卒業児童「卒業式」挙行。当該卒業生からの寄付による記念像完成。
平成12年 9月 最新型パソコン設置。サーバー・イントラネットシステム導入
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