着きました10分で(笑)。
乗船券を買うのに車検証まで要るとは知りませんでした。係りの人が、もう出航するから、と焦らせるのであわてましたよ、ほんとに。最後の1台でした。
口之津には山田右衛門作の住居跡が残っているらしいのですが、残念ながら見ている時間はありませんでした。今日はこの後、本渡市にある天草切支丹館へ行き、崎津天主堂、大江天主堂と、下島をぐるっと回って下田温泉まで行かねばならないのです。
ひとえに天草といいますが、天草諸島と呼ばれる大小たくさんの島々から成っています。下島、上島、大矢野島などのいくつかの島があり、熊本県側とは全て橋で繋がっています。島原半島からは、口之津港から下島の鬼池港までフェリーを使うのが便利。約30分で天草・下島(五和町)の鬼池港に着きます。下島は天草の中でも一番大きな島。その中心部が本渡市で、天草の乱の激戦の場所となった祇園橋もこの本渡市にあります。 |

【口之津港】
海上から見た口之津港 |

【海上からの原城】
中央の船と写真の右端の間のちょうど真ん中あたりの、海に突き出た部分が原城です。小さくて見づらいですね〜。 |
この旅行中はお天気がとても良かったので、海も凪いでいて全く揺れませんでした。天草からこの島原に渡ってきた四郎勢も同じ風景を見たのかと思うと、感無量です。
しばらくして口之津港を出ると、島原半島の右手奥に原城が見えてきます。櫓台にかかっていた青いビニールシートがかすかに確認できたので、間違いないようです。写真ではわからないのが残念なのですが。
運が良ければイルカにも遭遇出来るそうです。この日は残念ながら姿は見えませんでした。
鬼池で真っ先に私たちを出迎えてくれたのは四郎様。港の向かいに四郎像が建てられています。特に四郎に縁の場所ではないと思ったのですが、記念にパチリ。
”残照に立つ天草四郎時貞”とありました。昭和53年9月に建立されたものだそうです。
長崎でタクシーの運転手さんに教えていただいた名産の車エビの養殖のお店で遅めの昼食を取った後(美味しい上に安いっ!)、本渡市の中心にある殉教公園へ。
この公園内には千人塚と、この旅の2つ目の目的地である、天草切支丹館があります。 |

【鬼池の四郎像】
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【殉教公園内にある千人塚】
本渡市内の激戦の地、祇園橋で亡くなった人々のために建てられた慰霊碑です。
奥の半球状の碑が千人塚。 |
殉教公園は小高い山の上にあり、本渡市とそれに続く島原湾が一望できます。殉教公園の一番奥に、天草切支丹館がありました。切支丹館の前庭には、天草四郎像、石碑、聖杯などがあります。数ある四郎像の中で、最も美しいと私は勝手に思っているのですが、色々なガイドブックでも天草四郎像というと、たいていこの像の写真が使われています。 |

【切支丹館前庭の石碑】
「四郎らは 世に幸あれと祈りけり 命のかぎり 友と共々」とあります。 |

【切支丹館前庭の聖杯】
石碑の隣にある聖杯 |

【切支丹館の四郎像】
”現世に天国の世を築こうぞ”
昭和50年2月25日建立。初代館長である亀井勇さんの製作。ブロンズ製 |

【切支丹館の四郎像】 |
切支丹館の建物は3階建てで、1階が事務室とおみやげ店、2階と3階が展示室になっています。事務室の窓口で入場券を買って階段を上ると、階段の途中、右手に、でかでかと『SHIROH』のポスターが貼ってありました。帝劇にも貼ってあった、あの一番大きいサイズのでした。なんだか懐かしい人に会ったような気分でした。
階段を上った正面に、お目当ての天草四郎陣中旗が飾ってありました。国の重要文化財に指定されていることもあって、特定の日以外はレプリカが展示されているそうです。この日見ることが出来たのも、残念ながらレプリカでした。舞台の上ではあれだけ大きかった陣中旗ですが、実際は108.6cm四方の小さなものでした。
館内には陣中旗の他、天草四郎像2体、四郎を描いた絵、など四郎に関する展示物の他に、ロザリオ、マリア観音、隠し十字仏、踏み絵に使われたという銅製のピエタなど、キリシタンに纏わる興味深い展示物が数多く展示されています。そして、館内の至る所に天草四郎やキリシタンに関して詳しく説明してある資料が置かれています。これは持ち帰り自由とのことなので、一通りいただいてきました。
帰り際、事務室の前を通りかかると「もっと詳しい内容をお知りになりたい方はお気軽に事務室にお立ち寄り下さい」というような内容の案内文を発見したので、すかさず「天草四郎の生誕の場所を知りたいのですが」と声を掛けてみました。事務室に招きいれられると、そこにまた『SHIROH』のポスターを発見。スカイネットアジア航空の方が持って見えられたそうです。
そして、また次々と現れる資料の数々!館内に置いてあるだけでも相当な数なのに、いったいどれだけ作ってあるのでしょうか〜。とても詳しく説明していただき、せっかくだからと、館内をもう一度案内して下さいました。丁度、観光バスで来た一団と一緒になったので、即席ツアーのような形になりました。たぶん館長さんだったのではないかと思うのですが、失礼なことにお名前も聞きそびれてしまいました。展示物以外についてもとても詳しくて、自らも天草四郎研究をされている方なのだろうと推察しています。
生誕の地と言われている益田甚兵衛屋敷跡への行き方も、地図まで書いて詳しく説明して下さいました。まずこの場所で間違いないとのことですが、案内板もないし、草が生い茂っているだけの場所とのこと。でもせっかくここまで来たので、ぜひ行ってみたいと意気込んでいた私は、いったい館長さん(と決めつけていますが)の目にはどう映ったのか、やや心配ではあります…。生誕の地と終焉の地はわかっているけど、さてお墓はどこに?と素朴な質問をぶつけてみたところ、今は現存していないとのお答えでした。原城にあるのも天草四郎公園にあるのも、あれは慰霊碑でお墓ではないと。
四郎は原城で討ち取られた後、その首はまず原城の大手門前に晒され、さらに、長崎の出島に晒されたのだそうです。その後、長崎の西坂に葬られて確かにお墓(供養塔)もあったそうなのですが、昭和20年の原爆投下で焼失してしまったのだとか。お墓のあった場所には、今は何も残っていないとのことでした。
切支丹館からの帰り際、私たちを見送って下さった後、四郎像の前で写真を撮っていたら、シャッターを押してくれ、さらに車に乗って出発しかけていたところに走ってやってきて、先ほど見せていただいた本物の陣中旗の写真を持たせてくれました。説明用に用意してあるものだと思うのですが、いいのかな、と思いつつ、ちゃっかり頂いてきてしまいました。本物が見られないことをあまりに残念がっていたので同情されたのかも知れません。本当に親切にしていただいてありがとうございました。この場で云っても届かないかも知れないのですが。 |

【崎津天主堂】
この教会の内部はなんと畳敷きです。
昭和9年建立。 |

【大江天主堂】
夕方で暗い上に逆光ですみません…。白一色のとても美しい教会でした。昭和7年建立。 |
その後、下島をぐるっと回って崎津天主堂に着いたのは17:30を回っていたので、とっくに閉館時間を過ぎていたのですが、ちょうど係りの方が帰ろうと鍵をかけていたところだったため、また開けていただいてしまいました。
住宅街の中にひっそり佇むこの教会の中は畳敷きで、こじんまりとはしていますが、地域の方に愛されている教会なんだな、というのが伝わってきます。元の庄屋宅跡に建てられた教会とのことですが、ちょうど祭壇のあった場所で踏み絵が行われていたそうです(踏み絵は毎年正月に庄屋の屋敷で行われていたとのことです)。
その後、大江天主堂に向かいましたが、さすがに閉館した後だったので中には入れませんでした。でもドアのガラス越しに内部の様子が見て取れました。こちらは小高い丘の上に立つ白亜の教会で、手入れの行き届いた色とりどりの花が咲き乱れる庭園もあり、とても美しい教会でした。私の撮った写真で見ると、何だかホラー映画に出てきそうなんですけどね…。アングルが悪いのかなあ。
海沿いのサンセットラインをドライブしながら、東シナ海に沈む美しい夕日を堪能し、下田温泉の宿についたのは18:30を回っていました。この日の夕食は大感激の海の幸オンパレード。味といい、新鮮さといい、そのボリュームといい、凄かったです!また食べたい、いや、また行きたいです、ぜひ。 |