青い草の香りに目を細める。
見上げれば、青い空。夏の風が吹く。
緑色の地平線に、小さな小屋が見える。
そこまで夢を見て、いきなり息が詰まりかけて、伊庭は目をあけた。
もう5月というのに蝦夷の朝は遅い。
伊庭が寝ている小部屋には、まだ朝日はさしこまない。
疼く痛みが、目覚めた生身によみがえる。受けた傷が、どんどん熱く重く広がっていく。
水が飲みたい。
ああ、これじゃあ面白くない。
俺は面白くないことは大嫌いなんだ。生きるってことは、面白くなけりゃ。そうだろう。
箱根の戦で、左腕をやられた時もそう思った。
たいしたことはない、と思ったが、どうもよくない。痛みが全身にまわり、とうとう動けなくなった。
ようやく医者にみせたら、これはもう腕を切らねば全身が毒でやられると言う。
麻酔もない。どうしようと迷う医者に、伊庭は苛立ちそんなに困るなら自分で切ると、自分で腐った左の腕を切り落とした。医者は気絶した。
どうしてそんな無茶をする、と本山に怒られたが、あれで命は落とさずすんだのだからいいではないか。人に大事な腕を切られるよりは、自分で切った方がよい。
今になれば、あれも面白い体験だった。これまで、ずいぶん面白いことをやってきた。
俺の基準って、そうだな、面白いかどうかってことかな。
蝦夷は、ずいぶんと面白いところだった。 榎本は、蝦夷で国を作ると大言壮語した。馬鹿だなぁ、と伊庭も思う。大名になるのか、と誰かが聞くと、そうではないと榎本は言った。
そのとき榎本は言わなかったが、後から「開拓」という言葉を耳にした。
どこまで榎本が本気なのかはわからないが、開拓など口に出したら、皆猛反発しただろう。そんな百姓か流人のような真似は、プライドの高いあの連中にはできはすまい。いや、榎本自身だって。
でもね、と伊庭は思う。俺は、百姓は偉いと思うよ。
百姓が米作ってくれなきゃ、俺たち飯食えねぇ。
床の間できっちり座って苦虫噛みつぶした顔してこの国のあり方とは、なんて聞いたふうなことのべてる奴らよりも、泥に入って草を抜いて、米作ってる百姓の方がずっと役に立ってると思う。
偉そうに刀さしてるあんたらだって、家に帰れば裏庭で大根や菜っぱ作ってる奴多いだろう。俺も子供の頃、門下の奴の家で大根ひかせてもらったことがあるよ。
すぽーんと抜けて、あれは心地よかったなぁ。どんどんひいちまって、そこんちのかみさんが青い顔してた。
でもあの心地よさは、侍やってちゃ味わえない。
草を尻にひいて、足なげだして、馬鹿みてぇに空見てる方が、俺は好きだ。
体が布団にじっとりと溶けていくように、鈍重だ。また眠りに落ちそうだ。
昨日あたりから、気を抜けば眠ってしまう。痛みは、すでに根深い疼きになって、骨や内蔵まで達している。 負傷した当初は、この痛みは唐突で違和感だった。だけど、このごろはもう疼きとなって、体の芯までしみこんでしまった。奇妙な慣れができて、油断すると眠ってしまう。
食う、寝る、遊ぶ、ことは好きだった。楽しいから。だけど、この「眠り」はよくないと本能が言っている。このまま眠りにも慣れてしまえば、不吉だと。
伊庭は睡魔とわずかに格闘するが、次第にその格闘できる時間が短くなっている。
またあの夢の中だ。
これは、蝦夷の夏なんだろうか。
でも俺達、蝦夷の夏はまだ知らないんだが。
とてつもなく広い丘陵。
俺が知ってるのは、白と灰色の風景だが、それが全部緑色に染まっている。
空、太陽、風、草。
地平線にあの粗末な木の小屋が見えた。
あれは以前戦いで野山に駆けたとき、夜露をしのいで使った木こり小屋に似ている。いや、夢だからきっとそうなのだろう。
だけどよく見ると少し違う。近くに見ると、まったく違う。
誰かがいる。あれは、土方さんとこの連中だ。
土方さんが、あきれたように言った。
「どうやって来た。馬鹿じゃねぇか」
それは、俺が蝦夷まで無理して来たとき、あんたが言ったと同じせりふだ。人が死ぬ思いで来たのに。馬鹿はねぇだろう。
土方さんとこの連中が、にこにこと笑ってとりなした。ああ、あんたのとこはよくできた連中がついてるね。こいつらなら馬鹿みたいに体力あるし、蝦夷でも百姓仕事だってできそうだ。
俺は思うんだけど、旧幕軍の偉い連中の中で、一番けろりと刀捨てて「開拓」ってのしてくれそうなのって、案外あんたたちじゃねぇかなぁ。
なんだろうなぁ。あんた達って、他の連中とは執着するものが違う気がするんだよな。あんた達にはあんた達のなにかがあって、それがぶれなければ存外なんだって平気なんじゃないかなぁ。
俺があんた達結構好きなのって、そういうところじゃないかなぁ。なんて言ったら、土方さんにぶっ殺されるか。
でも、あんたらっていいよ。陰でいろいろ言う奴らいたけど、俺はこう見えても一生懸命な奴って好きなんだ。一生懸命って、侍だろうが、百姓だろうが、その価値は一緒だ。一生懸命になれることがなかったってことは、とても不幸せだ。たとえ成功したって、どんなに偉い地位や金持ちだって、つまらないままだ。そうだろう、土方さん。俺達って、結構幸せ者だよな。
ああ、でもそういえば、土方さん。あんたこないだ死んだんじゃなかったっけ。
はっ、と伊庭は目をあけた。
全身がぐったりと重く、暑い。なのに汗はかいていない。
しんとした空気がのしかかる。
体が、もういけないとわかる。
土方は、多分戦死した。皆自分にはかくしていたが、漏れ聞こえる会話の端々でわかる。いっそ全部聞きたいのだが、問う力がなかった。
問えないまま、俺は終わるのか。知りたいことが知れない、というのは、いやだなぁ。
彼方で、また大砲の音がした。
戦は、まだ続いている。俺がここでうらうらと夢を見ていても。
油断すると、呼吸が止まりかける。息を吸う。吐く。吸う。吐く。
そのとき、障子の向こうで声がした。
かろうじて、伊庭は返答する。
榎本だった。
榎本は、神妙な顔で枕元に座った。
伊庭は、息を吸う。意識して、吐く。吸う。吐く。
「苦しいのか、伊庭君」榎本が、伊庭の手をとる。
当たり前だ、こんな様子で鼻歌でも歌えるほど楽しいはずがあるか。伊庭は、舌打ちする。
榎本は、しばらく目線を落とし、それから言った。
「楽になる、薬がある。それは、最後の手段だが、君が望むなら使おう」
伊庭は妙な感心をする。 ああ、とことん不思議なことを言う男だ。俺もあんたも侍じゃなかったか。だったら、こういうときは一応切腹だろう。とことんとぼけた奴だ。しかも、なんでそんなに真剣で泣きそうなんだ。俺が結構それで納得しちまうってこと、見抜いてるとしたら、ちょっと笑っちゃうよね。
でも。 楽になるってのはいいな。
このまま、息するのもしんどいまま続くなんて、俺は面白くない。
ああ、だけど。
だけど、俺、知らないままってのはいやだから。
「ひじかたさんは」
と、伊庭は言った。
それは、明確な言葉にはならなかったが、榎本は意味を理解した。
「土方君は」
一瞬迷って、しかし言った。
「立派に戦って、討ち死にした。」
そうか。やっぱりね。ああ、かっこいいね。俺はちょっと、かっこ悪いな。それだけが少しばかり残念だ。
榎本は、モルヒネを伊庭に与えた。
伊庭は、少し笑った。
呼吸がとても楽になった。痛みが、遠のいた。
深い眠りに落ちながら、伊庭は再び蝦夷の夏に舞い戻る。
緑の中で、土方があきれた顔で立っていた。 連中が、俺を笑って迎えてくれる。
蝦夷の夏は美しかった。
青い青い空と、緑色の草原が、くっきりと地平線で区切られる。
気持ちいい。
伊庭は、大きく深呼吸した。
こんなおいしい空気を思い切り吸うのは、何年ぶりだ。
草と、太陽の匂い。
小屋の前で、誰かが呑気にあくびをしている。
いいねぇ。
ここでは、たくさんたくさん、これから面白いことができるだろう。
なにしろ、ここにはまだなにもないんだからな。 俺は、またここで大根を抜こう。あれは、気持ちいいんだ。
見ろ。みんな裸足じゃねぇか。
end. |