素晴らしい映画だった。早くも今年のマイ・ベスト候補は間違いない。
原題は「潜水服と蝶」だが、日本語タイトルも悪くない。映画ファンなら「ブレードランナー」の原作名である「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を思い浮かべるかもしれないが。
前売券を買うときに、私は「潜水艦は…」と言っていた。あ、潜水服か、潜水服ね。
なぜ「潜水服」なのだろうと、私は意味を知らずに観たが、映画のなかで、主人公が潜水服で水中にいる場面が出てくる。
まさに、その場面で、私は電光に打たれたかのように理解した。(大げさだが。)
そうか、そういうことだったのか。
そして、蝶が何を意味するかも、観ているうちに分かった。
映画を観る前に、インターネットや雑誌で知ることもできるが、映画を観ながら、その場で理解したことは、なんだか、とてもうれしいことだった。
予備知識なしに観て、映画のなかで知っていく喜びは、映画の醍醐味(だいごみ)だ。できれば皆さんにも、そういう映画の見かたをおすすめしたい。
だから、この時点で、この駄文を読むのを止めてもかまわない。いい映画だと私自身が思うものほど、感想を読んでしまって、いろいろと前もって知ってほしくない、というジレンマのようなことにもなる。
体の麻痺(まひ)、車いす、とくれば、数年前の映画
「海を飛ぶ夢」を思い出す。あちらは考えさせられる、いい映画だった。
「潜水服は蝶の夢を見る」を観た今、「海を飛ぶ夢」と並べて考えてみても、やはり、
人それぞれの生き方があることを知る。
本作は、脳梗塞(のうこうそく)のために、左目のまぶた以外の全身が麻痺して動かせなくなり、
片目の「まばたき」だけで言葉を伝達し、1冊の本を作り上げた人間の実話だ。
使うことが多い順に並べたアルファベットを読んでもらい、主人公が使いたいアルファベットのところに来たら、まばたきをする。
そうやって1つずつアルファベットを選んでいき、文章を作る。気の遠くなるほど大変な作業だ。しかも、これで1冊の本を作るのだ。
女優たちも美しい。(これ、かなり私のポイントなのである。ご承知のとおり?)
言語療法士のアンリエットを演じるマリ=ジョゼ・クローズ(「ミュンヘン」で演じたオランダ人暗殺者の強烈な最期は忘れられない。)は、今回、時々ナオミ・ワッツさんに似ている美女だし、理学療法士のマリー役のオラツ・ロペス・ヘルメンディアもきれい。彼女は監督の奥さんだという。
主人公ジャン=ドミニク・ボビーの奥さんセリーヌ役には、エマニュエル・セニエ。
ロマン・ポランスキー監督と結婚して、夫の映画でも女優として活躍したりしている。
ジャン=ドミニクの本を筆記する編集者クロードに扮するアンヌ・コンシニは、クロード本人と会って話をしているそうだ。
他にも、きれいな女性がいっぱい。ビバ!フランス!である。(笑)
ジャン=ドー(ジャン=ドミニクは、こう呼ばれている)が、美女を前にして何もできないのが口惜しいと思うのも無理はない!
(俳優たちはフランス人だが、監督や脚本家、製作者などはアメリカ人。事実のとおりに、
フランス人キャストで作ったのは大正解。ジョニー・デップ主演の話もあったが、スケジュールの都合で実現しなかったそうだ。)
(ちなみに、ジャン=ドーは「ジョン・ドー」に通じる、とパンフレットのなかで映画評論家の今野雄二氏が書いている。ジョン・ドーは、フランク・キャプラ監督の「群集」(1941年)に出てくる架空の人物。どこにでもいる普通の人、誰でもある、という意味での仮名に使われることから、ジャン=ドーは私たち誰のことでも有り得る、という。)
映画が始まってしばらくは、
ジャン=ドーの視点がカメラと一致するので、アンリエットたち美女の顔のアップも多い(ので、うれしい)。
このカメラワークも興味深かった。最後まで、これで行くのかと思ったが、途中から普通の撮り方に変わった。しかし、それにも意味がある。ジャン=ドーが本を書こうと思いたち、生きる意志が広がったことを視点の広がりで示すものだろう。
カメラはヤヌス・カミンスキー。スティーヴン・スピルバーグ監督作品では常連の撮影監督だ。
あまり美女美女と言っていると、そのせいで素晴らしい映画と思っているのかと勘違いされそうだが、もちろん、そのせいだけではない。
画家でもある監督の表現力、想像力の貢献も大きいし、すべてのスタッフとキャストの総合的な映画の力だ。
観ている途中から涙が止まらなかった。
悲しいというのではない。こうした状況になりながらも、ときにはユーモアを忘れずに生きている、生きていこうとする生命の素晴らしさや、周囲の人たちの気持ちに打たれたせいもあるだろう。
体が動かなくなっても、ジャン=ドーの記憶と想像力は、自由だ。
ジャン=ドーの記憶で、
父親のヒゲを剃る場面がある。一見どうということもないとも思える場面で、しかも、かなり長い描写だ。
しかし、これが、とてもいいシーンで、後から思い返しても、じんわりと染みてくる。こういうのも映画のマジックである。
そして、この父親を演じるのが、スウェーデンの名優マックス・フォン・シドーだとは! イングマル・ベルイマン監督作品で存在感を発揮し、「エクソシスト」(1973年)などハリウッド作品にも出演。50年以上の映画のキャリアがある。
脚本は英語で書かれていたものを、監督と俳優たちが話し合ってセリフなどを検討しなおしていったという。そんなところも、不自然さをなくし、役柄に入っていくための努力。
こんな状況に、もしも自分が陥ったらどうするか。こうした映画を観ると、いつも考える。
こんなふうに生きるだろうか、生きられるだろうかと。
人生のシミュレーション映画。
きびしい運命なのに、ユーモアを失わないのがいい。
観たあとが、なぜか爽やかなのは、やはりジャン=ドーが
「やりとげた」からだろう。
本が出版されて数日後に亡くなったのは、本を作るのが、いかに彼の生きがいとなっていたかを示すものでもあったと思うが、人間の可能性のすごさをも、しらしめる、傑作である。
エンドクレジットで映される、序盤で出てきたシーンの「逆回し」。その意味の、なんと素晴らしいことか。
生きること。
美しい映画だった。
このエンドクレジットには、2007年4月に他界した俳優
ジャン=ピエール・カッセル(「三銃士」〔1973年〕、「四銃士」〔1974年〕など。ヴァンサン・カッセルの父)への献辞もある。神父と店主の2役。神父は分かったが、店主ってルルドでの場面だろうか?
現在、YouTubeでも予告編などを見ることができる。
ジャン=ドミニクが書いた本、必ず読むぞ。