この映画を観た理由は、
アカデミー賞をはじめとする賞レースの常連だったから。
賞をとる映画が、すべての人にとって必ず素晴らしいとは限らないが、ある程度の基準にはなるはずなので、ふだんはあまり見ないジャンルの文芸作だが、チェックだ。
まず少し意外に思ったのは、主役がキーラ・ナイトレイでも、ジェームズ・マカヴォイでもなく、キーラの妹を演じた
シアーシャ・ローナンだったこと。
映画賞なら、たいてい助演候補になるだろうが、実質的には主役といっていい。
映画は、ブライオニー(ローナン)がタイプライターで戯曲(芝居)を書いているところから始まる。
タイプライターを打つ音が、音楽になる。これが、すごく興味深く、印象的。
作曲のダリオ・マリアネッリはアカデミー賞などで受賞したが、これは納得できる。
もちろん、タイプライターを使った音楽だけではなくて、他でも美しい旋律を作っている。
タイプライターの音楽とともに、ブライオニーが部屋の中をサッサッと歩き、まるで兵隊の行進かなにかのように、直角に曲がったりするイメージは、彼女の、少女期特有(ブライオニーは、このとき13歳)の張り詰めた危うさ、余裕のなさ、堅さ、のようなものを感じさせる。
経験の少ない頃に、自分の感受性を、周囲の出来事と、どう折り合いを付けていくか。それが、とても難しい時期って、あると思う。
その事件が起きたのは、ブライオニーが、そんな時期だったせいもあるだろう。
彼女が、姉セシリア(ナイトレイ)と使用人の息子ロビー(マカヴォイ)の、ただならない場面を見てしまう。1日のうちに2度も。
しかも、その間には、彼から姉への手紙の中身を盗み見てしまう。
さらに、その夜、決定的な事件が起きる。
あれだけ刺激的なことが続けば、ブライオニーの年頃だったら、彼女でなくてもヘンになってしまうかも。
あんな手紙を間違って封に入れるかよ、とか、1日のなかであれほど立て続けに事件を目撃するか、というのも、ちょっと思うが、
現実は、ありえないことではない。
ブライオニーは3人の女優によって演じられる。
もっとも素晴らしいのは13歳のブライオニーを演じたシアーシャ・ローナン。映画のカギとなる部分なので印象深いのは当然になるが、
演技の的確さは文句のつけようがないくらい。
はやくも主演作品が控えていると、ちらりと噂に聞いたが、それも納得だ。
続いては、
ロモーラ・ガライが18歳の時を演じる。ロモーラといえば、「エンジェル」の彼女は素晴らしく、個人的に昨年度の主演女優賞に推したくらいだが、本作では出番が少なめだったし、シアーシャと比べて顔がぽっちゃりしていたので、私には、ほんの少し違和感があった。達者なシアーシャのあとで、見どころも少ないので、ちょっと損な役だ。
最後には老年期で、
ヴァネッサ・レッドグレーブが。大物をもってきましたね。ここは最後に、あっと驚くところで、ちょいと出てきてお得感たっぷりだ。
見ていないものを見た、と言うブライオニーを正面から捕らえ、「
私の、この目で、見た」と言わせ、ロビーの母が「うそつき!うそつき!」と警察の車に向かって叫び続ける(ロビーの母を演じるのは、これも名女優ブレンダ・ブレシン。彼女も、ちょいと出なのだが、ここが見せ場になる。)、その声が、離れた屋敷から外の様子を見ているブライオニーの胸に突き刺さっていく。
この描写の巧さ。まるでベテラン監督の作品のようだが、本作の監督は、2005年の「プライドと偏見」が長編初監督となった
ジョー・ライト。
同じ出来事を視点を変えて繰り返す手法も使っていて、なんだか先日観た「バンテージ・ポイント」を思わせた。
映像的に特筆したいのは、戦地での
長回し撮影(撮影を切らずに、一度に長々と撮り続けること)。
ロビーたちがたどりついたのはダンケルク。この地からフランス・イギリス軍が撤退するわけだが、カメラはロビーたちの足取りを追いながら、ここにいる大勢の兵士の様子、海岸の様子をも撮っていく。
途中で、あ、この撮影は長いな、カットされてないぞ、と気づいて、そこから注意して観ていた。
長回しだから、どうだ、ということでもないが、撤退現場を延々と続けて映すことによって、
永遠に続きそうな虚しさ、のようなものを出すことはできるのではないだろうか。
ラストでは、ブライオニーがおこなった罪滅ぼしが明かされる。彼女の「贖罪(しょくざい)」(イアン・マキューアンによる原作のタイトル)。
人間の悲しさ、あやまちがドラマティックに描かれた、文芸の香り高い一作だ。
3月に54歳の若さで急逝した
アンソニー・ミンゲラ監督(「イングリッシュ・ペイシェント」〔1996年〕、
「コールド マウンテン」〔2003年〕など)が、ラスト近く、テレビのインタビュアー役で登場。最初で最後の映画出演となった。