スイミング・プール 私の解釈



ジュリーは出版社社長の娘であり実在する。本当の彼女は、映画のラストに出てくる。
だが、別荘でのジュリーは、サラの想像上のジュリーである。サラが想像する容姿と性格を持ったジュリーだ。
そしてサラは、想像の中で精神的にジュリーに同化したり、ジュリーの母になったりする。


つまり、リュディヴィーヌ・サニエ嬢が映画に登場したときから、お話は、サラの想像上のものだった、ということになる。

…というのが私の解釈である。もちろん、これが正解とは言わない。ひとつの考え方を試みてみた、ということだ。

サラは作家だから、想像力はお手のもの。
別荘にジュリーがやってきた、という設定を考え、映画で描かれていくような物語を書くのだ。
想像上のジュリーの若さの魅力は、いまのサラには無いもの。若さの魅力を取り戻したいというサラの願望を満たしているのが想像上のジュリーなのだ。

プール際でジュリーが男を殺すのも、つまりはサラが男を殺したいわけだ。ジュリーはサラの分身でもあるわけだから。
連絡も取れず、別荘にやって来ない出版社社長。男に捨てられるのではないかという不安を感じているサラ。ミステリー作家という資質もあって、サラは、不実な男を殺してみようかと、ふと思う。もちろん想像だから出来ることだ。プール際で殺される男は、出版社社長の代理だ。
ジュリーとしての殺人の動機も、きちんと出来ている。母親が出版社社長の愛人だったが捨てられた。娘は、男に捨てられた母親の受けた悲しみを、自分は絶対に味わいたくないと思う。自分は母親とは違うと思いたいから、いつも男をそばに置いて安心していたい。ところが、いま、男がいきなり帰ろうとしている。軽い錯乱状態になったジュリーは男を殺す。ジュリーにとっても、心の奥では、憎い出版社社長を殺している場面だ。
殺人の場面でのジュリーの精神状態では、彼女はジュリーの母親でもあり、サラでもある。

ジュリーの母親がサラであるとも言える、というのは、ジュリーの母親がサラと同様に、出版社社長の愛人という設定であることや、ジュリーがサラを「ママ」と呼んだこと、などからも暗示されていると考えても変ではないだろう。

ジュリーは「あなたのために殺した」とサラに言う。そう、サラが男を殺したかったのだから。サラが想像の上でジュリーに男を殺させたのだから、それは正しい。

管理人の男に、死体を埋めた穴を発見されそうになると、サラは別荘の2階から男を呼ぶ。声が聞こえそうにない距離に思えたのだが、管理人には彼女の声が聞こえているらしい。実際に管理人に声が届かない距離であっても、ちゃんと聞こえていて問題は何もない。それはサラの想像上の出来事だから。

サラが管理人の前に全裸をさらすのは、彼女の性的な願望の表われた想像。
これまでは想像上のジュリーに若さと奔放さを任せていたが、ついにサラも想像の中とはいえ、冒険に踏み出したのである。それは、実際に出版社社長と、きっぱりと別れようという、一歩前に踏み出すための、サラの決意のほどを表現したものでもあるのだろうか。

以上のように深読みも出来る小説を書いたサラは、出版社社長にその原稿を読ませる。当然、自分のことはよく書かれていないから、社長は出版を渋る。そこでサラは、他の出版社からその本をすでに出したことを告げて、不実な男に復讐を果たすわけである。

共犯者として心を通じ合った彼女たち、サラとジュリーは、手を振リ合って別れを惜しむのだった。


…そんなところで、いかがでしょうか。
ま、もっと深く突っ込むと、矛盾するところも出てくるだろうから、このへんで。
1回観た時点では、このように思ったのだが、もう1回観たら、まるで間違っていた、と感じて、考えが変わってくるかもしれない。

謎を解く鍵は、電話、十字架、最後にサラがどちらの手を振っていたか、などとも巷(ちまた)では言われているらしい。電話の謎とくれば、なにやら「マルホランド・ドライブ」のような。

サラとジュリーの関係が、「8人の女たち」のギャビー(カトリーヌ・ドヌーブ)とルイーズ(エマニュエル・べアール)の関係が発展したものだ、という話もある。これはどういうことなのか分からない。
噂の聞き違いかもしれないが、分かる方がいたら教えてほしい。

オゾン監督は、しかし、物語の正解は決めていないのではないだろうか。観客が自由に想像することを望んで。

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