ムーラン・ルージュ

MOULIN ROUGE
監督 バズ・ラーマン
出演 ニコール・キッドマン  ユアン・マクレガー  ジム・ブロードベント  リチャード・ロクスボロウ  ジョン・レグイザモ  カイリー・ミノーグ
脚本 バズ・ラーマン  クレイグ・ピアース
音楽 クレイグ・アームストロング  
音楽監督 マリウス・デ・ブリーズ
2001年 オーストラリア・アメリカ作品 128分
ナショナル・ボード・オブ・レビュー…作品・助演男優(ジム・ブロードベント)賞受賞
ゴールデングローブ賞…作品(コメディ・ミュージカル部門)・主演女優(コメディ・ミュージカル部門)・作曲賞受賞
ロサンゼルス批評家協会賞…助演男優・美術賞受賞
アメリカ映画協会(AFI)賞…作曲・編集(ジル・ビルコック)賞受賞
英国アカデミー賞…助演男優・音楽・音響賞受賞
全米放送映画批評家協会賞…監督賞受賞
アメリカ製作者組合賞…最優秀映画製作賞受賞
アカデミー賞…美術・衣装デザイン賞受賞
評価☆☆☆☆★

堂々と言おう。100%好きな映画だと。

興奮と幸福に満ちた2時間8分の映像と音楽の世界だった。
絢爛豪華で奔放な、独創にあふれた、映画でなければなし得ない表現と、時代設定を無視した歌曲の数々という先鋭的なスタイルに彩られて語られるのは、逆に、世界中でもっとも根源的なストーリーとして語られているであろう、愛の物語である。
しかも、難病に倒れる絶世の美女の悲恋物語とくれば、もう怖いものはないではないか。

もともとミュージカルが好きなことはあるが、とにかくグイグイと好みのツボを刺激しまくりで、はじめから嬉しさのあまり涙を浮かべ、物語の悲しさのあまり涙を落としつづけた。

オープニングは、配給会社である20世紀フォックスのファンファーレ。私はこのファンファーレが大好きで、聞くたびにワクワクするのだが、すでにここから、この映画の遊び心が発揮される。指揮者が登場して、大げさな身振りでタクトを振っているのだ。この時点で早くも、きっとアクの強い、確信犯的にブッ飛んだところがある映画なのではないかと感じていた。

観客はすぐにムーラン・ルージュの、猥雑でエネルギーに満ちた雑踏のなかへと引きずり込まれていく。
はじめのレビュー場面は、たたみかけるような雑然としたパワーと、短いカットの連続によるスピード感で、観る者を圧倒する。音と映像のジェットローラーコースター状態だ。
しかし、ムーラン・ルージュのスター、‘スパークリング(きらめく)ダイアモンド’サティーンと作家の悲恋のシーンになると、カメラはじっくりと腰を据える。

物語は、まったくシンプルだ。レビューのスターと貧乏作家が恋をするが、ショーをするにはスターは資金を出してくれる公爵のものにならなければいけない。そのうえ、彼女は病におかされてしまう…というもの。ともすれば、観ているほうが照れそうなほどベタな話だ。
だが、物語のテーマは「この世でもっとも素晴らしいことは、人を愛し、その人から愛されること」であり、だから分かりやすいベタなお話でいいのだ。

そのシンプルな物語を、圧倒的なスペクタクル(大仕掛けな見世物)で包み、観客を夢の世界へ運ぶのだ。それこそが娯楽映画のひとつの行き方ではないか。

ミュージカルが好きでないという人は、セリフから、いきなり歌になるのは変だと言う。そういう輩(やから)は、この映画を観よ。なぜ歌うか。感情があふれてきて、歌がほとばしり出るのを抑えられないってことなのだ。こっぱずかしくたってかまうものか。それは、人が心から望んだ素直な感情の表出なのだ。

劇中で歌われるのは、サウンド・オブ・ミュージックからポリスまで、舞台になる1899年〜1900年からは、かけ離れた現代の曲だ。中でも印象的なのは、マリリン・モンローが「紳士は金髪がお好き」で歌った“Diamonds are a Girl's Best Friend”とエルトン・ジョンの“Your Song”、そして映画のオリジナル曲“Come What May”(歌詞を別ページに。下にリンクあり)だ。
マリリン・ファンだというならば、見逃すわけには行くまい。

それにしても、この映画のニコール・キッドマンの美しさは、この世の奇跡のように絶品だ。私も彼女と恋に落ちて、彼女に先に逝かれたならば、パリが水没するほどの嘆きの涙をこぼすだろう。

ラストシーンが終わり、エンドクレジットでスクリーンに名前が出始める。
ここの音楽も、もろに好みだった。
スティーブ・シャープルズの作曲で、「ボレロ」というタイトルがついている。
後日観たDVDの音声解説で、監督は、最後にこの曲を使ってよかった、と言っている。だんだんテンポが速くなる曲で、悲劇のエンディングの気分のままで終わらず、この音楽で元気づけられるからだ。
そのとおり。この曲を聴いていると、だんだんと気持ちが高揚してくる。
かくのごとく、最初から最後まで、この映画の曲は最高なのである。つまらない音楽は、ただのひとつたりともないのだ。(この段落、文章追加あり。2002年5月)

本編が終わると席を立って帰る人がたくさんいる。最近はエンドクレジットが何分も続くから、よく分からない英語をずっと眺めててもしょうがないという気持ちは理解できなくもない。
だが、曲を聴いて、余韻に浸ってみるのもいいではないか。
しかも、ごくまれにではあるが、このエンドクレジットのあとに、ちょっとした続きがある場合があるのだ。すぐに席を立った人は、そういうお楽しみがあったことを知るよしもない。可哀想である。
そして…「ムーラン・ルージュ」にも、それはあった。最後の最後に、いくつかの英語が出てくるのだ。
それは劇中で語られ、たぶんパンフレットにも載っていることだろうから、見なくても取り返しがつかないものではない。だが、映画が提示した、この最後の最後のところで、観客はそれを受け止めるべきだ。そうでなければ、その映画をすべて観たことにはならない。
その意味から、私はエンドクレジットの最後の1秒が終わり、場内が明るくなるまで、観客は映画に向き合っているべきだと考える。

帰り道、初老の夫婦の会話が耳に入った。
「色彩感覚が豊かな映画だったね。昔のイタリア映画、フェリー二みたいに」
そうか。そういう見かたもあるよなあ。私は嬉しかった。いかにも映画好きというコメントだったこと以上に、年老いても仲良く夫婦で映画を観に来ていることが。映画が、この「ムーラン・ルージュ」が、老夫婦を引き付ける力を持っていることが。

この圧倒的快感に浸るにはテレビの画面では絶対に物足りない。設備のいい映画館の大きなスクリーンの前で、この映像と音楽の洪水を受け止めよう。

私は幸運にも試写会で観ることができたが、今度はお金を払ってでも映画館に行き、あの至福のなかに再び身を委ねたい
〔2001年11月10日(土) 東京国際フォーラム ホールC〕



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