主役は、最盛期を過ぎてもプロレスラーとして生きることを選んだ男。
演じるミッキー・ロークの人生に重なるような役柄だったのが大成功。
「アクロス・ザ・ユニバース」、
「ダイアナの選択」の
エヴァン・レイチェル・ウッドが出ているから観た映画だったが、もちろん彼女もよかったけれど、
ミッキー・ロークとマリサ・トメイも素晴らしかった。
ロークはプロレスラーの役で、自らの体で試合のシーンも演じる。その意欲、努力は、たいしたもの。
ロークといえば、なぜかプロボクシングをやりはじめ、1992年に日本でも試合をやった。勝つには勝ったが、力なく、フニャーッとしたパンチが「猫パンチ」と言われ、失笑を買う。
ボクシングのときに少しはトレーニングしただろうから、その経験が今回のプロレスの練習にも生きたのかもしれない。体つきは、そのままプロレスラーといってもいいくらいで、その面からも適役だった。
映画スターとしての挫折、復活といったドラマを実生活で演じてきたローク。
ダーレン・アロノフスキー監督(「レクイエム・フォー・ドリーム」は強烈だった)は、製作スタジオの推薦するニコラス・ケイジの主演に反対し、予算を減らされてもミッキー・ロークにこだわったといわれている。彼がロークの主演にこだわったのは、主役のプロレスラーが、まさにロークとダブる人物だったからであり、映画が観客に受ける可能性を分かっていたからに違いない。
実際、これ以上、ぴったりな主演俳優がいるだろうか。ロークをイメージして脚本を書いたのではないかとさえ思えてしまう。
ロークも、これはチャンスと思ったのか、体を張って頑張っている。
ロークは友人の
ブルース・スプリングスティーンに手紙を書いて主題歌を依頼、スプリングスティーンは映画の脚本を読み「ザ・レスラー」を書き下ろし、歌った。監督にすれば、棚からぼた餅の、うれしい話だっただろう。
この映画では、プロレスの裏側が分かって面白い。試合前の控え室で、対戦選手同士が打ち合わせをするのだ。どういうふうに試合を進めていくか、フィニッシュはどうするか。同じ日に行われる別の試合と似たような展開を避けるように考えたりもする。
やはり
プロレスはショーといわれるだけあるなあと変に納得。
これが相撲だったら、八百長と言われる。(笑)
もちろん、打ち合わせなしの真剣勝負もあるかもしれないし、そのほうが多いかもしれない。私は知りません。
盛りを過ぎた選手の寂しさや孤独を、ひしひしと見せてくれる。
試合が終わって帰ってきたあとの孤独な暮らし、サイン会の閑散とした風景…。昔の栄光の遺産は、まだ、かすかに残っているが…。
マリサ・トメイがストリッパー役。「いとこのビニー」(1992年)でアカデミー助演女優賞をとっている女優さん。
私は彼女の映画はあまり見ていないはずで、見た映画でも、彼女の記憶が、あまりない。
しかし、今回の役は印象深い。
ローク演じるランディが唯一、心を許す相手。もう若くはないストリッパー。
トップレス姿を惜しげもなくさらして踊る彼女、(エロいというのを通り越して)
きれいで感動的です。
年齢をいうと失礼だが、撮影当時43歳くらいだったのに、とてもそうは見えない体。(ある記事で読んだが、グッドスタイルの秘密はフラフープだとか。)
人生をにじませるのは、演技もあるだろうけれど、
それまで生きてきた俳優の人間味そのもののほうが大きいのかなと、ロークやトメイ嬢を見ると、特にそう感じる。
エヴァン・レイチェル・ウッドは、ロークの娘の役。音信不通だった父親が訪ねてきて動揺するが、父の心からの言葉を聞くと、態度をやわらげる。
父娘の心が通い合う場面には、じーんとくる。
しかし、この父親、ダメな親父の典型のような人。ダメな人というのは、どうしてもダメなふうになってしまうことが多いみたいで。
自分でダメにしているのではないかと思うくらい、もったいないことをしてしまうんですね。
さて、ローク演じるランディは、娘との、修復が始まった関係を維持できるのか。
生きるのに不器用な男。なんだか身につまされたりして。
自分のしてきたこと、そのツケはすべて責任をもって自分で支払う覚悟で生きている。今の状態を受け入れ、誰を憎むでもなく、淡々と生きているような様子は、どこか、すがすがしくもある。
そして、葛藤もあるが、やはり、自分の生きたい道、好きな道を行くことを選ぶ。
でも…他の
「生きられる道」を、つかんでほしかった気もするなあ。
ラストは観客の想像にまかせている形だが、私だったら、すべてを、いいほうにとりたい。とってみたい。
決して、そうはならないだろうと感じてはいても。
せめて、私の頭の中だけでも、大甘に終わらせてあげたい。
ついでに書き留めておくと、アカデミー賞授賞式で、「スラムドッグ$ミリオネア」のフリーダ・ピント嬢がミッキー・ロークに言われたそうだ。
ここに来るには、まだ若すぎる、帰って、おねんねしてなよ、と。
本当だとしたら、自分と違って、それほどの苦労なくして、授賞式に来ることができたピント嬢に、皮肉のひとつも言ってみたかったのか。それともジョークなのかもしれないが。
まあ、そういうことは、映画の出来とは、まったく関係ないけどね。