広東省南海の人、1847年生まれ。黄飛熊とも。父の黄麒英は「広東十虎」の一人に数えられた武術の達人。黄麒英は息子には学問を修めさせたいと当初は武術を教授しなかったというが、十二歳頃には家伝の拳法をほぼ修得し、さらに黄麒英の師である陸阿采、また林福成鐵橋三に師事したとされる。

 

広東十虎 鐵橋三、王隠林、蘇乞兒、鐔済筠、黄麒英、鐵指陳、蘇黒虎、黄澄可、鄒泰、黎仁超
東莞三傑 莫清嬌、皮碟、王老佐
少林五老(五雄) 五枚尼姑、白眉道人、憑道徳、至善和尚、苗顕
少林三雄 方孝玉、方美玉、方世玉
少林四侠女 苗翠花、陸阿采、方永春、紅小雲
少林八傑 陸飛鵬、竜彪、尚志、謝福、李錦綸、洪熙官、胡恵乾
少林七奸 李流芳、陳景昇、高進忠、宋承思、方魁、馬雄、白安福

流派は南派少林洪家拳で、始祖・洪煕官の直系の弟子。素早く的確な蹴り技は「無影脚」と賞された。「無影脚」はもともと女性武術家の技であったが、その夫である宋輝鏜から洪家鉄線拳の型と交換で教わったといわれる。

  鉄線拳は鉄橋三の創始した型であるが、鉄橋三の高弟・林福成が仏山の街頭で演舞中、誤って見物人に怪我を負わせてしまった際、治療を助けた黄飛鴻に感謝して伝授したとも。

黄飛鴻は、広東一の獅子舞の名手として知られ、「獅王」と称された。若い頃は広東第五連隊と広東民兵軍の総裁をつとめ,晩年は広州の西關仁安街で父の創立した医局兼武術道場の寳芝林を経営。革命の混乱で寳芝林が焼失した翌年の24年、病を得て城西方便病院にて没し、広州観陰山の山頂に葬られた。

 

 

世界で最も多くの映画の主人公になった人としてギネスブックにも記載されている(らしい)。最初の映画化は没後25年を経た1949年。

映画監督の胡鵬が友人の呉一嘯と香港を訪れた際、ふと目にした新聞に、黄飛鴻の孫弟子・朱愚斉が書いた黄飛鴻小説が掲載されていた。そこには呉一嘯黄飛鴻直系の弟子だとの記述が。呉一嘯朱愚斉の創作だと否定したが、黄飛鴻の物語に興味を持った胡鵬は映画化を企画。

こうして作られた映画が、監督・胡鵬、脚本・朱愚斉、主演・關コ興の記念すべき黄飛鴻映画第1作「黄飛鴻傳上集・鞭風滅燭」である。以来、次々と關コ興版黄飛鴻電影が世に送り出され、黄飛鴻は香港の英雄となった。 

 

<黄飛鴻の生きた時代>

黄飛鴻の生きた時代は、太平天国の乱から日清戦争、辛亥革命、中国共産党発足とまさに中国近代史の激動期。同時代人には、ワンチャイ2の主要人物の一人・孫文、ワンチャイ3に登場する李鴻章のほか袁世凱魯迅らがいる。阿片戦争の林則徐とはほぼ入れ違い。 

林則徐

李鴻章

魯迅

孫文

 

<ワンチャイ映画の時代設定>

 

 ワンチャイ4・5の冒頭では「劇中歴史人物、事件、乃作演義式演繹、非正史所載」と断られているが、ワンチャイ映画には黄飛鴻を始め実在の人物が登場し、歴史上の事件が背景になっていることも多い。ワンチャイ映画の時代設定を推察してみると・・・

 ワンチャイ1

製作当時のインタビューを見ると、徐克は1875年と設定していた模様。冒頭、これから遠征に出ようとする劉永福が登場するが、彼がベトナム防衛の功を認められ、その私設軍であった黒旗軍が正規政府軍として編入されたのが1884年のこと。

劉永福(1837〜1917)
広東省人。太平天国革命に参加した後、ベトナムで黒旗軍を編成しフランスの侵略に対抗。清朝はこの抵抗運動に呼応し官軍を派遣、清仏戦争が勃発した。1885年の天津条約により清朝はベトナムの宗主権を放棄したが、劉永福はその後も日本の台湾領有や21ヶ条要求に抵抗する運動を展開した。

ワンチャイ2

冒頭で下関条約に反対するデモが背景に描かれており、1895年に設定されていることは明らか。

ワンチャイ3〜5

この3作は時間的にほとんど連続しており、まずワンチャイ3では、ワンチャイ2の後かつ李鴻章が存命であることから、1895年から1901年の間と考えられるが、そのワンチャイ3の直後の話であるワンチャイ4のラストで八ヶ国連合軍の北京入城が言及されているので、1900年の事と特定できる。

 ワンチャイ4は、3のラスト・獅王争覇戦の直後から始まるので、やはり1900年の出来事。ちなみに4では義和団の女子別働隊とも言われる「紅灯照」が取り上げられているが、史実ではこの「紅灯照」が北京に出現したのは1900年6月と言われている。

 続くワンチャイ5も、4の最後からほとんど連続しているので、遅くとも1901年頃の設定だろう。余談ながら5に登場する海賊の親父は張保仔という実在した海賊だが、実際には1822年に死んでいる。張保仔の生年は不明だが、存命ならこの時点で100歳を超えていることは間違いないところ。


 さて、上記の推定年代が正しいとした上で、黄飛鴻の年齢を考えてみると、ワンチャイ1の時点では28歳。これは当時の李連杰の年齢とほぼ同じ。
 
 ワンチャイ1と2はほとんど連続しているような印象を受けるが、実はワンチャイ2は1から20年後の話であり、黄飛鴻は既に50歳に近いことになる。この時孫文は30歳前で、映画から受ける感じとはかなり異なり、黄飛鴻の息子といってもおかしくない年齢であった筈。

 まぁそれを言うならば、ワンチャイ3で初お目見えする黄飛鴻の父・黄麒英は既に40年近く前に死んでいる筈なのだが・・・・。
ここらへんが「非正史所載」の所以か。

 

 

南海省西樵の人。子供の頃から生活のために武術を見せたり教えたりしていたが、それを見た陸阿采が武道家としての素質を見込み養子とし、唯一の弟子として五郎八卦棍という棒術の極意を伝授したとされる。黄麒英の成人後、陸阿采は武術を捨て医術の勉強をしていたといい、黄麒英も兵隊に武術を教えるかたわら生活費の足しにと薬草店を開き、これが後の寳芝林である。