たら・れば




 ・・・だったら、・・・していれば、といった言葉を良く使うだろう。こういう言葉の語尾に注目して、これを「たら・れば」と呼ぶ。

 こういう言葉を良く使うのは、大体が言い訳けのときだろう。あとは外国語の仮定法を教える時だったり、歴史家とかが自説を解説するときに使うくらいかな?

 御存じの方もいらっしゃるだろうが、藤子不二雄作のドラえもんで、「もしもボックス」というのがあった。公衆電話のボックスに似た形のもしもボックスの中にある受話器を上げて、「もしも・・・・」って言えばその仮定の世界に行くことができる、という代物だ。当然、のび太は調子に乗った使い方をしてあとで痛い目に会う、っていうストーリーではあるが。

 人生は後戻りはできない。だからこそ面白いのだ。そうでしょ?もしも同じ場所に戻れたりしたら逆につまんないもの。人生は失敗の繰り返し。だからこそ人間は成長するのだろう。僕だって何度も「あの時期に戻れたら・・・」って考えることがある。上手く行ってる時はそんなことは絶対に思わない。失敗したり辛い目にあったりしている時にそう思うのだ。僕を含めて人間のなんて勝手なところだろうか(涙)。

 あの時ああしていたら、ああなっていればと言うケース、人生のかかった大きなものからどうでもいいけどちょっと考えてみた、っていう小さなものまで色々あるものだ。例えば「あのパットが入っていたらプロゴルファーになれたのに・・・」とか「あのミスさえしなかったら、今頃は・・・」といったものだ。こういうことを言うのは大体にして諦めの悪い連中ばっかりだ、僕を含めて(笑)。

 僕は高校生の時、あと1勝で、しかもあと2ポイントでインターハイ出場が決まる、ってとこまで進出したことがあった。「あそこであのショットが決まっていたら」と何度も思ったものだ。絶対に人生が変わっていただろうから。でも、そこでそのショットが入らなかったから今の自分があるのだ!そこでそのショットが入る奴は現在もそれなりのテニス人生を送っている。

 失敗があるから大きくなれる、と最初に言った。僕もあの時とれなかった2ポイントを求めて大学でテニスをやった、とも言えないことはない(どういうこっちゃ?)。みんなどこかに「たら・れば」を抱えて生きている。その大小は問題ではない。大きい失敗はできる時にしておいたら良いのだ。できない時にさえしなかったらそうそう問題にはならないハズだ。

 人生には大きな分岐点がいくつもある。学校に入るとき、就職するとき、結婚するとき、・・・。その分岐点において、後になって「たら・れば」を考えるような選択だけはしないように心掛けなければならない。と言ってもそれが難しいのだが。自信を持って決断したのなら、諦めがつくというものだ。だからもし迷ったら、変なことは考えず、自分の信じた道を突き進む。これが一番の大事なことであろう。


2000.06.01



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