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別天地万歳
2000年
文:矢澤金太郎

ぐみと工房よりの遠景

東京から、はるばる妻の郷里の宮崎にやってきて、早や23年、私が住む、田野町の八重(はえ)という村は、 スイスアルプスの麓の村々にも似た、緑豊かな別天地である。

鰐塚山(わにつかやま)の裾野に広がる杉山が、夕日の斜光を浴びて輝き出す光景は、ここに住める喜びを再確認させてくれる。春には町道のクヌギや、宮崎大学の演習林の若葉が美しく、夏にはクワガタやカブトムシの群に、 都会から遊びに来た子供達が驚喜し、秋にはうまい米が穫れる。 やがて冬が来て、名物の干し大根が凍る夜になると、大根畑は壮大なテント場に変わる。 天空に広がる星空の下、凍結防止の為に、夜通し赤々と火を灯した、干し大根のやぐらが立ち並ぶ光景を見る者は、 ここで生活を営む農家の人達の、知恵と力に感動を覚えずにはいられないだろう。

この村は、地形的に袋小路になっているため、車の通行量は極めて少ない。 お陰で夕方は兎、深夜には狸が、良く整備された町道を「ケモノ道」代わりに利用している。 兎や狸も、舗装道路の方が歩きやすいようである。

私がここに住むようになったのは、ほんの偶然だった。 工房用の空き家探しに、ふと迷い込んだ山道を、辿って行った先が「八重」だった。 たまたま一軒の空き家があり、そこに残っていた囲炉裏と、目前に広がる雄大な鰐塚山の借景に、一目惚れしてしまった。

私達がここに住み始めた頃、今は亡くなられた、隣家のスミエという名のおばあさんが、「あんたちは、来なったばっかしじゃかい、畑の野菜もとれんし、食うもんがねえじゃろう」と、毎日、日に三度も手作りのおかずを持ってきてくれた。貧しくて耳パンと、目玉焼き一つ、という食事の多かった私達にとって、彼女の親切は今も忘れられない。彼女は私達が自分の畑で野菜が穫れるようになった後も、元気な内は、雨の日も風の日も、毎日なにがしかの食料を差し入れてくれた。私達がこの村で今日を迎えられるのは、隣人や村の人々の優しさのお陰である。   工房のクローバー

東京と較べ、宮崎は土地が非常に安いため、同じ年収でも相対所得が高くなり、東京人より遙かに豊かな生活ができる。 私のような物作りにとっては、広い土地に住め、渋滞の少ない快適な道路を走れ、青い空とうまい水、海や山の幸にも恵まれた宮崎は、専門店が少ないなどの多少の不便を差し引いても、なお住むに値する、離れがたい理想郷なのである。


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