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木に詫びる
2000年
文:矢澤金太郎

宮崎県清武町大楠

年をとるほどに美と威厳を増すものがある。その一つが木である。 人の寿命は、多く見積もっても、たかだか150歳。ところが木は、種類にもよるが、 100や200歳ではまだまだ若造である。

国の天然記念物に指定されている、宮崎県清武町にある船引神社の大楠は、推定樹齢900年、 根の周囲は21メートル、内部に八畳敷きの空洞を有する、県内一の老木ではあるが、いまだに威厳ある姿で、 みずみずしい若葉を茂らせている。その壁のような巨体の前に立つと、誰しも自然の偉大な生命力に圧倒される。

「木には永遠の命が宿っている・・」

人が愛し合い、憎しみあってきたこの世を、ただじっと見下ろしてきた木。しかも何百年もの昔から。 どんな嵐や日照りが続こうとも、うろたえもせず、不動の姿勢で、高々と大きく手を広げ、 人間に「美しい生き方」の手本を見せる木。 逃げ出したいような辛い日には、大地にどんと腰を据えた、木の潔い姿がまぶしい。 どこどこの古桜が今年も見事な花を付けた、というニュースを耳にすることがある。 人も年を重ねるほどに、美しく花を咲かせたいと思うが、無理というものであろうか。

宮崎県の小学校の校庭には、創立時に植えられた、樹齢百年程度の、直径1メートルもある、 大きなセンダンの木があったりするが、どんなガキ大将も、そんな巨木には一目置くようである。 最近、子供の起こす陰湿な事件が伝えられるが、子供達が木をいじめているところを、私は未だかって見たことがない。 子供は木が好きなのである。特に大きな木には、一緒に遊んだ思い出が、いっぱい詰まっている。 木を切ったり、焼いたり、むごいことをするのは、いつも私達、大人なのである。 山の若葉

私の元には、そうした大人の都合で切られたり、焼かれそうになった木が、沢山集まっている。 小学校の校庭の拡張で、切られたセンダンであったり、ゴルフコースの為に切られ、 燃やされそうになった松であったり..それらはやがていつか、家具として生まれ変わり、 再び人間と共に、生きることになる筈である。

木を愛すれば、まして木を切ることはできない。木を愛するといいつつ、木を削り家具を作る矛盾。 家具作りの私は、木に詫びて、こう言うしかない・・・

「決しておまえを、合板や突き板みたいな、薄っぺらな形にはしないよ。いつまでもおまえが、 美しく輝いていられるよう、精一杯の努力をするから・・・」


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