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私の半生(木工家になるまで)

このエッセイは、2002年秋、「宮崎県立高校学校PTA新聞」に掲載していただいたものです。

少年時代
私は1946年東京杉並の高円寺生まれ。自宅で産湯を浸かった私を見て父は「体が 赤いから金太郎だ、」と、簡単に命名したそうです。そういう特殊な名前を持つこと がどれだけ子どもにストレスを与えるものか考えもしなかったのでしょう。しかしそ の特殊な名前こそが今日の私を形成したといっても過言でないと、今では父に感謝し ています。

母を小学5年で亡くしたため、早く働けるよう高校は工業高校の機械科に進みまし た。小さい頃から機械に興味を持ち、錠前や金庫を釘で開けたり、動かなくなった時 計やカメラを直したりして大人を驚かすのが好きでした。

実業高校に進みましたが、大学への憧れは強く、高3から受験勉強を始めました。 普通科の人は受験勉強しかしないが、自分は機械の実技をも勉強していることを誇り としていました。大学は家計の都合で夜学へ行き昼間は働こうと考えましたが、幸か 不幸か、大学1年のとき、父が脳溢血で亡くなり、その遺産配分のお陰で、昼間の大 学を再受験することができました。大学(信州大)ではもっぱらスキーと登山と写真 に明け暮れました。当時、大学では一般教養を身につけ、専門の勉強は会社に入って から・・・というのんびりした風潮がありました。大学2年のとき友人と探検部を作 り、3年の時、海外遠征と銘打ってフィリピン・ミンダナオ島のアポ山に登りまし た。その時協力して頂いたダバオ市のミンダナオ大学に、翌年1年間招待留学生とし て滞在することができました。昼間は高校で英語を学び、夜は高校で日本の工作(折 り紙など)、大学では写真を教えていました。

フィリッピンへの渡航は実は大変なものでした。茨城の海岸からラワン船に乗り込 み、ミンダナオ島の名もないラワン切り出し港に着きましたが、そこには入国管理事 務所が無かったのです。ところが、お土産に日本酒をもらった上機嫌のお役人、「後 でマニラにパスポートを送ればいいちゃが、そんげなことよりさあ飲まんね!」とい うことになって、入国の判を押してもらわないまま入国してしまったのです。そのこ とが一年後の出国時に大変な騒ぎを引き起こすのですが、幸いダバオで親しくしてい ただいた商社の方に助けていただき、1年前の日付で入国印を押してもらい、無事出 国することができました。

大学を出てからは、至って真面目なサラリーマンを5年続けました。繊維機械メー カーでしたが、1年製造部勤務のあと営業に回されました。当時は大変景気が良く、 週に二三度は会社のお金で飲んでいました。良く連れて行かれたクラブは社長の愛人 が経営していました。「社長の耳に筒抜けだから、飲んでも絶対に酔ってはあかんよ」 こう先輩に諭されました。こんな毎日を過ごしていくうち、なにか非常に無駄な人生 を送っているという気がしてきました。主体性のない生活に決別すべく、結婚を機に 会社を辞め、妻と共にフランスに渡りました。フランスでは著名なパイプオルガン製 作者の元で1年半パイプオルガン製作の勉強をしました。

サン・ポール教会のオルガン
なぜパイプオルガンに興味を持ったかと言いますと、妻が習っていた電子オルガン のルーツがパイプオルガンだいうことを知ったからでした。電子オルガンがパイプオ ルガンの模倣ならば本物を見たい、という好奇心でドイツから製作の参考書を取り寄 せ、自分で作ってみたりしました。作ることは何とかいけそうだという自信もあって 世界的オルガン製作者マルク・ガルニエ氏に弟子入りしました。殆 ど言葉も分からなかったのですが、フランスはメートル法の国なので設計図は読め、 製作には問題ありませんでした。師匠は「早く!、そしていい仕事を」がモットーで したが、こと作ることにはその精度、早さで師匠に負けない自信がありました。しか し、オルガンは音が命なのです。一流のオルガン製作者に何よりも要求されることは 工作技術ではなく、音楽的素養なのです。一流の師匠に弟子入りしたからこそ、早く そのことに気づいたといえるでしょう。少なからぬ挫折感とともに帰国し、妻の郷里 宮崎にやって来ました。

ガルニエ氏との作業風景
オルガンの製作は殆どが木工作業でしたので、その経験を生かして家具を作ろう、 と思いたちました。師匠から常々「コンセプション(基本となる考え)が何よりも大 切、必要な技術は後から付いてくる」と言われておりましたので、家具とは何か、ど うあるべきか、という基本をまず考えました。私の考えたコンセプトとは、「代々受 け継がれて使われるうる家具」ということでした。そのためには、削り直しができる 無垢材であること、木が呼吸を続けられる天然塗料を使うこと、将来の日本人の生活 様式に適合したデザインで、上質な仕事でなければならない、と考えました。

家具作りの経験や知識がない、ということは別の見方をすれば、既成概念にとらわ れない自由な発想でおもしろいものが作れる、ということでもあります。私のデザイ ンした椅子やテーブルは独創的でありながら使いやすい、という評価を受けました。 私にとって無知は味方をしてくれたのです。

弟子達とのティータイム
現在工房には10名を越える弟子がいますが、人の真似をせず、自分の中にある個 性を引き出し育てるよう指導をしています。日本ではお手本を真似るということがよ く行われますが、大人になってもその習慣が残っている人が多いようです。私が修業 していた頃、オルガン製作を勉強中の若い日本人が私の師匠を訪れ、「あなたのオル ガンを真似て作りました」といって、そっくりコピーした自作の写真を見せました。 出来映えを褒めてもらえると思ったのでしょう、しかし師匠の顔はみるみる青ざめた のです。以来師匠は日本人を警戒するようになってしまったのでした。

本論であるべき指物(さしもの)の話が最後になってしまいましたが、私の仕事の 指物も、独自のコンセプトによるものだと思っています。指物とは板と板を組み合わ せて箱などを作ることなのですが、伝統的にはその「組み手」は隠すべきもの、とさ れています。しかし私は隠す必要は必ずしもないのじゃないか?という疑問から、見 せる組み手、鑑賞に値する組み手に取り組んでいます。この仕事は自分の他にやって いる人もいないようで孤独な仕事です。百年後に「日本にこんなおもしろい仕事をし ていた職人がいた」といわれる日を夢見て、日々自分の怠け癖と戦っているところで す。


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